身重の妻と5人の子どもと暮らしていました。
軍人ではありませんでしたが、
突然、「世羅部隊」という部隊に召集されたといいます。
いったい、どんな部隊で、なぜ被
爆したのか。
原爆資料館に、いくつかの記録が
残されていました。
「あ、ありましたね。冨原敬一、
昭和20年9月7日に亡くなって
いて」
戦況が悪化し、本土空襲を受けていた日本。
そこで軍は1945年に
町の重要施設を守る部隊を各地で結成します。
20代30代の若い男性は既に戦
地に赴いていたため
軍隊の教育を受けたことがない、
主に40歳から45歳の男性が召
集されました。
当時、41歳だった祖父もその1人です。
兵舎となったのは地元の小学校。
校庭で行われた訓練を見ていた人がいました。
当時9歳だった、林圭介さんです。
「訓練はどういうことをしていた?」
「まず竹槍ですか?」
急ごしらえの部隊で、戦争の渦に巻き込まれていった祖父。
そして「広島市内を警備せよ」と
いう命令が下ります。
期間は7月27日から8月6日の
正午まで。
祖父たち110名の部隊は広島市
に入りました。
「この橋ですね。昭和のはじめの
頃に建てられた橋だそうです。
かなり古いですよね。
私の祖父が所属していた世羅部隊はこういった橋を警備す
る仕事をしていたそうなんで、ひ
ょっとしたら私の祖
父もこうやって、この橋のそばに
立って通りを見ていたりしたのか
な」広島市内に数多くかかる橋。
アメリカ軍の空襲などに備え、毎晩警戒していたといいます。
そして任務の最終日となる8月6
日。
祖父たちは夜の警備を終えて、
宿舎となっていた広島市中区の幟町小学校へと帰ります。
祖父たちが仮眠をとっていた朝8
時15分、
原爆が落とされたのです。
爆心地から、およそ1キロの幟町小学校は倒壊し、
部隊の半数は即死でした。
その場所はいま、公園に…
「私の祖父が被爆したのはここな
んですね。
爆風で吹き飛んだ建物の破片など
が、
73年たった今も見つかります。
これまでに集めた破片は1000点以上にのぼります。
焼け焦げた被爆瓦、缶詰の破片に、
陶器製のボタン…。
嘉陽さんは、中学2年のとき修学
旅行で初めて広島へ。
その時、語り部の女性から、「爆
風で吹き飛んだ物がたくさん沈ん
でいるから祈りながら探してみな
さい」と言われました。
そのときの思いを忘れることなく、
16年間、被爆の記憶を拾い続けてきました。
「これは物産陳列館の5階バルコ
ニーの、おそらく、手すりです」
「こうやって見つけていく意味と
いうのは、どう思っている?」
原爆で人生を失った、たくさんの
人の思いを継いでいくためにも
私は戦争を子どもたちに伝え続け
ていきます。
私の家族の個人的な記憶、
人生を見ていただいただけかもしれません。
広島の原爆で亡くなった、
31万人の人たちには、
家族がいて、友人がいて、
人生がありました。
飢えて食べ物がなくなって、
死んでしまった子供たち、
誰でも、
人生がありました。
誰もが誰かにとっての
お天気です。
きょうから8月なんですけれども、
スタートもきょうは暑くなりました。
最高気温ですけど、
猛暑日になったところを枠で囲いますと、
こんな感じ。
舞鶴は全国で一番暑くなりました。
全国で2番に暑かったのは、
「にぎわいスペース」にすることなどを条件に、
規制が緩和されました。
このビルの1階には美術品が展示されるほか
カフェが設けられます。
付近では2020年の完成を目指して
高さ116メートルのビルも建設中で