アメリカの空襲から守る砦として→
大本営が死守せよと命じた
硫黄島。
硫黄ガスの立ちこめる
絶海の孤島です。
兵士たちは食料も飲み水もない
このしゃく熱の地で→
持久戦を強いられました。
地下に塹壕を張り巡らし→
徹底抗戦したものの
2万人が戦死。
西さんも命を落とした一人だと
見られます。
西さんが最期まで
大切に持っていた手紙には→
出征のさなかに生まれた
男の子の事が→
頻繁に記されていました。
「昭壽チャン 昭壽チャンと→
みんなして
かわいがっております」。
その昭壽さんを探して
差出人の住所を訪ねました。
ごめんください。
こんにちは。NHKの宮脇です。
昭壽さんは 功さんの弟で→
6人きょうだいの末っ子だといいます。
手紙を書いたのは
西さんの妻 トキエさんでした。
その隣が手紙を受け取った
西 春市さん。
38歳の時 突然 召集され→
5人の子どもと身重の妻を家に残し→
硫黄島へ向かいました。
西さんは 昭壽さんの成長を妻の手紙で知ったようです。
「昭壽チャン 良く笑いますよ。
高笑いも致します」。
「貴方様に良くにていますよ」。
しかし この手紙が届いた頃→
アメリカ軍は
西さんのいる硫黄島に→
激しい艦砲射撃や空爆を
浴びせていました。
故郷のトキエさんは
夫の無事を祈りながら→
昭壽さんの成長を伝え続けます。
昭和19年12月→
西さんのもとに届いた
最後の手紙です。
2か月後
アメリカ軍が硫黄島に上陸。
圧倒的な兵力で
西さんたちが立てこもる塹壕に→
総攻撃を仕掛けます。
記録によれば3月17日 西さんは戦死。
最期まで
34通の手紙を携えていました。
生まれたばかりだった
昭壽さんは→
今 広島で暮らしていると
兄 功さんが教えてくれました。
西 昭壽さん 74歳です。
6人きょうだいの中で ただ一人父親と会った事がありません。
母に心配をかけまいと→
父について詳しく訪ねた事はなかったといいます。
34通の手紙を…。
34通もあったの!?
全て拝見…
拝読させてもらいました。
あ~ 本当。
う~ん。
父の人生に 自分は
存在しなかったのではないか。
寂しさを抱えながら
生きてきました。
「玉の様な男子が
生まれました。→
大きな大きな一貫もありました。→
赤い顔をして丸い丸い 丈夫そうな元気もの。→
昭壽チャン 昭壽チャンと
みんな かわいがっております」→
っていう お手紙なんです。
父は 自分が生まれた時から成長していく様子までを→
つぶさに知っていてくれた。
いや つらい。
ちょっと… ちょっといい?
34通の手紙が 時をこえて→
父のぬくもりを
伝えてくれました。
6人の中で一番似てるとは
言われたんですよ。 お義母さんが。
一番似てるんよって言われました。
こういった手紙だけが親父との絆ですから。
まあ 73年という歳月ですけどね。
やっと帰ってきたち…。
今まで 親父は いないんだ
いないんだ言ってたもん。
うん…。
本当に 戦争さえ なければ→
思い出が いっぱいあったろうと