2018/10/15(月) 22:25〜23:10 プロフェッショナル 仕事の流儀「バレーボール全日本女子監督・中田久美」[解][字]


目指すバレーの成熟を図る。
おはようございます。

日々の強化メニューを決めるのが監督の中田の仕事。
この日 外国人コーチが 試合形式の中で
コンビネーションを磨く練習を提案した。
得点するチャンスを もらって
そこから決めて…。
中田は 更に注文をつけた。
♪♪~
合宿中 中田は選手の部屋割りや
役割分担にまで目を配っていた。
周りを観察し さきざきを読むのが
勝負の第一歩。
味方の思いを
あうんの呼吸で読み取ることから→
コンマ数秒を競うコンビネーションが
生まれると 中田は考えていた。
だが 合宿最終日。
選手の日誌を読んでいた中田の顔はいつになく 厳しかった。
練習用のボールが2つ無くなった。


あうんの呼吸で つながるチームならそんなことは起きるだろうか?
合宿で あらわとなった チームの綻び。
中田は やがて大きな危機に直面することになる。
♪♪~
中田さんは なぜ戦いに身を投じ続けるのか?
そのワケを知るため ある人を訪ねた。
どうぞ お入り下さい。
幼くして勝負の世界に飛び込んだ
一人娘の戦いを ずっと見守ってきた。
親子2人 この家に暮らしている。
セッター賞を もらったっていう。
光子さんは ある時 見た
娘の覚悟が忘れられない。
メモが出てきたんですよね。
その覚悟は 低迷する女子バレーの監督をあえて引き受けた中田さんに→
つながって見える。
中田さんは 1965年 東京に生まれた。
その前の年
東京オリンピックでは→
「東洋の魔女」が
金メダル。
その背中を追って 14歳で親元を離れ
バレーボールのエリート養成塾に入った。
15歳で日本代表入り。
でも そこから いばらの道が始まる。
18歳 セッターとして挑んだ
ロサンゼルスオリンピック。
日本は初めて 決勝戦に進めなかった。
(実況)中国勝ちました。 日本敗れました。
そして21歳の時 悲劇に襲われた。

右膝じん帯断裂。
医師からは
「再起不能」と告げられた。
手術の直後の様子を
母 光子さんは鮮明に覚えている。
僅か 10か月で
中田さんはコートに復帰した。
でも膝は もはや
かつてのようには曲がらなかった。
それでも心に むち打って
日本代表を引っ張り続けた。
でも ソウルオリンピックも→
そして ラストチャンスと誓ったバルセロナオリンピックも→
メダルには 届かなかった。
≪中田さん どうも お疲れさまでした。
27歳で代表引退。
日の丸に 別れを告げた。
その後 モデルをしても
タレントの仕事をしても→
何かが むなしかった。
引退から 14年。
41歳の時 父 博秋さんが
末期ガンと診断された。
父に 「人生に悔いはない?」
と尋ねると→
博秋さんは…
…と答えた。
中田さんは 全ての仕事をキャンセルし
イタリアに渡った。
「もう一度 バレーボールの世界で

生きていく」。
最新の戦術を 徹底的に吸収した。
世界で日本が勝つために 何をすべきか。
指導者として とことん突き詰めた。
(実況)決めた! 25点目! 逆転勝利で優勝!
無我夢中で3度の日本一に輝いた年
あの光景を見た。
リオデジャネイロオリンピック。
日本が5位に沈む姿。
後任の監督は 火中の栗を拾うことになる。
でも迷わず 中田さんは手を挙げた。
母には その気持ちが
痛いほど分かったという。
やっぱり これで…
簡単な戦いではないことは誰よりも分かっている。
でも 中田さんは 逃げない。
きつい時は こう考える。
5月。 今シーズン初の国際大会が開幕。
負けられない相手がいた。
リオ五輪4位のオランダ。