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2018/12/02(日) 21:00〜21:50 NHKスペシャル 平成史 第2回「バブル 終わらない清算〜山一証券破綻の深層」[字]


どう対処するのか→
金融行政の在り方が問われた時代でした>
<1992年 平成4年 夏>
<銀行が莫大な不良債権を抱える中で→

株価は バブル最盛期の4割→
1万5,000円を割り込むまでに
下落しました>
<危機感を強めた
当時の宮沢総理大臣は→
不良債権処理のために


公的資金の投入を検討します>
<しかし 大蔵省などの反対で断念。→
国は 危機対応を先送りする結果となりました>
<そして 90年代半ばになると
金融機関の経営が連鎖的に悪化。→
大蔵省は 前例のない事態に→
有効な手だてを打つことができませんでした。→
当時 大蔵省銀行局課長として
金融危機への対応に当たっていた→
内藤純一さん>
<銀行の救済合併や資金繰りの折衝など→
目先の対策で手いっぱいだったと
振り返ります>
山一証券の経営陣は
なぜ 問題を先送りし→
その後も 軌道修正することが
できなかったのか。
その地下に
創業から破綻まで 100年間にわたる→
山一証券の内部資料が保管されていた。
この中に 破綻に深く関わったとされる→
100人を超える当事者たちの
証言記録が残されていた。
自主廃業を公表した後に行われた
社内調査や→
証券取引等監視委員会の
聞き取りの記録だ。
当時 調査のために引かれた
アンダーラインが生々しく残されている。
証言記録から

損失の隠蔽を知らされた幹部たちも→
危機と向き合おうとしていなかったことが
分かった。
「法的におかしいとは思っていたが
経営判断だった」。
「知っていても 言うだけで
自分の首を絞めることになり→
どうにもならない」。
「簿外債務に触れるのは タブーだった」。
こう証言していたのは→
今回 取材に応じた元常務取締役の藤橋 忍。
藤橋が不正の全貌を知ったのは→
損失隠しが始まった2年後の平成5年。
役員が一堂に会した会議の場だった。
この時 隠蔽していた損失は2,000億円にまで膨らんでいた。
その他の損失も合わせると
総額は 6,000億円に及んでいたという。
役員や現場の担当者は
責任を押しつけ合うばかりで→
当事者意識を欠いていたと振り返る。
藤橋自身は 損失隠しを公表した上で早急に経営改善を図る方が→
会社のダメージが少ないと考えた。
そこで 事業規模の縮小などを断行し損失を埋めるよう→
行平の後継 三木淳夫社長に提案。
しかし にべもなく退けられた。
事業法人部の正富芳信。
このころ 苦しい営業を強いられていた。
ある企業との取り引きを
前任者から引き継いだ時のことを→
今でも克明に記憶している。

しかし 株価の下落で損失は増え続け→
プレッシャーに押し潰されそうだったと
語る。
損失を隠蔽し続ける手法を考案した
木下公明。
早期退職を考えていた木下は
役員に昇進していた。
隠蔽が いつか発覚するのではないかと
不安を感じ始めていた。
損失隠しの事実を
幹部の多くが知ることになった→
1990年代半ば。
株価は 一時 2万円台を回復するなど→
持ち直す動きを見せていた。
当時 会長になっていた行平と社長の三木。
今回 見つかった記録の中には
2人の証言も残されていた。
株価が上がれば 隠蔽している損失も
解消できると判断していたという。
「右肩上がりの相場の中で→
うまくいくという考えで運用を行っていた」。
「相場が
下落傾向となってからも→
法人顧客から
積極的に資金を集めていた」。
「損失補填があり
また出すと→
とても 会社がもたないと
思った」。
「株については 日本神話が残っていた。→


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