飲用水を供給するための主要な水道でした。
水道橋は できるだけ まっすぐで
効率のよいものである必要がありました。
そこで 2つの丘の間に
水道橋が造られました。
30メートルもの高さで そびえたち
丘から丘へ 1キロ以上 続いています。
水道橋は 今も 堂々たる遺跡として

建ち続けています。
どうも こんにちは。
考古学者のジェームズ・クロウは古代都市の給水システムを研究しています。
これは 思ったよりも高いですね。
(クロウ)ここまで来たら絶景が待ってますよ。
クロウは この街の
給水システムについても調査しています。
ありがとうございます。 ハァ…。
確かに 見事な見晴らしですね。
そうでしょう。
これは すばらしい…。
ええ。


まるで 道路の上を飛んでいるかのような気分です。
水は どこを通っていたんですか?
この下に 大きな水路があるんです。
高さは あなたくらい。 幅は これくらい。
街の貯水槽や噴水を満たすために街のはるか西方から 水が引かれました。
給水システム発見のきっかけは?
調査を始める前から 街の外に 非常に長い水路があることは分かっていました。
ただ 森の中で 実際に 給水のための
構造物を見つけるまでには→
20年以上 かかりました。
古い地図などを調べたり村の人たちの話を聞いたりしてね。
構造物の位置を把握できたことで→
郊外から街へとつながる 給水システム全体の長さを算出できるようになりました。
ここの給水システムは
ローマと同じくらい高度なんでしょうか?
もちろんです。 技術的には
ローマをしのいでいる点もあります。
現代の技術者たちに この話をすると→
どうして こんなものが造れたのかと驚かれます。
3Dスキャンによって
水道橋内の2つの大きな水路が→
どう 流れていたのかが分かります。
水は 街じゅうに広がる200以上もの貯水槽に届けられました。
貯水槽の中には 急ごしらえで
造られたものもあれば→
サッカー場ほど 巨大なものもありました。
水は 最長で 200キロ離れた森の水源から2本の水路で供給されました。
水路は 全長580キロ以上。
驚くほどの長さを誇る高度な給水システムでした。
3Dスキャンによって コンスタンティノープルの

繁栄の様子が明らかになりました。
一方 ブコレオン宮殿の跡からは
その衰退の物語も見えてきます。
ブコレオン宮殿は 1204年
キリスト教徒同士の戦いで→
破壊されました。
同じキリスト教でも ビザンツ帝国で信仰されていた正教会と→
西方のローマ・カトリック教会は
何百年にもわたって 対立してきました。
この宮殿は 何度も再建されてきましたが
それも 1204年までのことでした。
ベネチアが主導する
西方の第4回十字軍によって→
コンスタンティノープルは陥落し
この美しい宮殿も破壊されたんです。
コンスタンティノープルは
西方の勢力によって→
50年以上にわたり 支配されました。
正教会は否定され古代から続く図書館は打ち壊され→
さまざまな複合施設を擁した
ブコレオン宮殿も また→
略奪 破壊されました。
キリスト教徒同士の衝突はコンスタンティノープルを引き裂きました。
15世紀には 人口は7万を切りました。
コンスタンティノープルは 力を失い栄光の日々は過去のものとなりました。
その後 ビザンツ帝国は
コンスタンティノープルを奪還しましたが→
事態は悪化するばかりでした。
1452年までにビザンツ帝国の領土は縮小し→
キリスト教徒の街

コンスタンティノープルは→
イスラム教国のオスマン帝国に
取り囲まれました。
街が包囲されれば 物資は
船でしか補給できません。
オスマン帝国のメフメト2世は
コンスタンティノープルの征服を決意し→
補給を断つために 城砦を築きました。
「ルメリ・ヒサル」と呼ばれるこの城砦は→
ボスポラス海峡の最も狭い場所に
築かれました。
スコットは 歴史学者のアリ・ゼリックと
共に 「ルメリ・ヒサル」を訪れました。
城砦のメインの塔は メフメト2世が
コンスタンティノープル攻略の指揮をとった場所です。

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ikatako117

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