2019/01/06(日) 13:50〜15:05 あの日 あのとき あの番組「象徴天皇 素顔の記録」[字]


皇居の中では 日本の伝統産業も受け継がれています。
天皇陛下は 毎年 稲を育てられています。
収穫された米は 宮中祭祀の一つ→
新嘗祭のお供えとしても使われます。
皇后さまは 蚕を育てて繭をとる→
養蚕を続けられています。

御所の近くにある桑畑です。
皇后さまは 蚕の餌になる桑も
栽培されています。
だいぶね 今朝 雨でぬれたので
少し緑が出てきて。
(天皇陛下)なるほどね。
面白いものね。不思議でございますね。
春になると青くなるのね。 緑が。
特に ぬれたあとね。 雨で。ぬれたあと。 うん。
5月になると 桑の葉で
畑は 緑一色になります。
皇居の西にある半蔵門。
戦時中 空襲により 被害を受けました。
こちらに ご門?
そうでございますか。
ここと どこの…
どちらのでございますか?
昭和8年生まれの
天皇陛下。
1つ年下の皇后さま。
子どもの頃の記憶は戦争と結び付いています。
(玉音放送)「堪え難きを堪え
忍び難きを忍び→
以て 万世の為に


太平を開かむと欲す」。
昭和天皇による玉音放送。
戦争による日本人の犠牲者は300万人を超えました。
終戦の時 天皇陛下は11歳。
疎開先の日光から 東京へ戻った時→
一面の焼け野原を→
目の当たりにされたといいます。
皇后さまも 疎開先を転々とする→
暮らしを余儀なくされました。
天皇陛下は 即位10年にあたり
次のように述べられました。
私の幼い日の記憶は
3歳の時 昭和12年に始まります。
この年に 廬溝橋事件が起こり→
戦争は昭和20年の8月まで続きました。
したがって 私は→
戦争の無い時を知らないで育ちました。
この戦争により
それぞれの→
祖国のために
戦った軍人→
戦争の及んだ→
地域に住んでいた→
数知れない
人々の命が失われました。
哀悼の気持ち→
切なるものがあります。
広島に原子爆弾が落とされました。
この時 十数万人が犠牲となりました。
天皇陛下は→

「日本では 記憶しなければならない日が4つある」と述べられています。
昭和35年 広島原爆の日の式典に
初めて出席し→
平和の誓いを述べられました。
この慰霊碑の前に臨み→
感慨 切なるものがあります。
ここに深く追悼の意を表するとともに→
今後 再び→
このような事の無いよう→
世界の平和を
念願してやみません。
(鐘の音)
戦争の犠牲者を慰霊される天皇陛下。
しかし どうしても
訪れることのできない場所がありました。
沖縄。
太平洋戦争末期 国内で唯一→
民間人を巻き込んだ
激しい地上戦が行われました。
およそ20万人が犠牲になりました。
皇室に対する複雑な感情が根強く残ることになりました。
これは 天皇陛下の本棚に
収められている→
沖縄に関する書籍の一部です。
沖縄の文化や歴史そして 戦争の実情について→
詳しく知ろうとされていたことが
うかがえます。
お二人の 初めての
沖縄訪問が決まりました。
沖縄では 賛成派と反対派が

激しく対立していました。
この時期 お二人が
会われた人たちのリストが→
宮内庁に残されていました。
訪問前の3か月間で学者や地元の関係者など→
延べ62人を招き
話を聞かれていました。
その一人 沖縄の放送局で
取材を続けてきた→
川平朝清さんです。