2019/01/06(日) 13:50〜15:05 あの日 あのとき あの番組「象徴天皇 素顔の記録」[字]


川平さんは 沖縄県民の皇室に対する感情を伝えました。
その時に 私は 沖縄では
皇室に対しての感情というのは→
非常に複雑なものがありますということは
率直に申し上げたんです。
はっきり言えば 終戦の決断を→
天皇陛下が もう少し早くやって下さっていたら→
ああいう沖縄戦の悲劇もないだろうし。

出発の前日も天皇陛下は→
話を聞かれていました。
長年 親交のあった沖縄文化の研究者→
外間守善さんです。
その時 どのようなやり取りがあったのか。
外間さんのメモです。
「何が起きるか わかりませんので→
くれぐれも お気を付けられるようにと
申し上げました。→
殿下は『私は何が起きても受けます』と
強いご覚悟でした」。
昭和50年7月17日。


お二人は 初めて沖縄の地を踏まれました。
真っ先に向かわれたのは
ひめゆりの塔でした。
亡くなった学徒動員の女子学生をしのび
花を手向けられました。
案内役の ひめゆり同窓会会長から→
説明を聞き始められたその時でした。
(爆発音)
(実況)ちょうど今 皇太子殿下が→
源ゆき子さんから→
報告をお受けになっておられるその最中でした。
訪問に反対する 過激派の青年が
火炎瓶を投げつけました。
目の前に上がった火柱。
その赤い炎を お二人は→
じっと見据えられました。
「ひめゆりの塔では火炎瓶が投げられて…」。
この時の様子を伝える
録音テープが残されていました。
語っているのは 同行していた
東宮侍従 八木貞二さんです。
危険を避け 一旦 車に入った お二人は→
すぐに 混乱する現場に戻られました。
(女性)ええ ございません。
先ほど あちらに並んでらしたので。
説明をしていた
ひめゆり同窓会会長の無事を→
ご自分の目で 確かめられました。
そして 予定を変えることなく遺族との対面を続けられました。
この日の夜 天皇陛下は

沖縄県民に向けたメッセージを→
八木侍従を通じて発表されました。
(八木侍従)「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い→
沖縄戦における
県民の傷痕を深く省み→
平和への願いを 未来につなげ→
ともどもに力を合わせて努力していきたいと思います。→
払われた 多くの尊い犠牲は→
一時の行為や 言葉によってあがなえるものではなく→
人々が 長い年月をかけて
これを記憶し→
一人々々
深い内省の中にあって→
この地に心を寄せ続けていくことを
おいて 考えられません」。
このメッセージのあと お二人は→
7回にわたって沖縄を訪問されています。
昭和59年 結婚25年の記者会見で→
皇室と政治との関わりについて→
次のように 述べられています。
日本の皇室は 長い歴史を通じて→
政治を動かしてきたという時期は→
極めて短いということが特徴であり→
外国にはない例ではないかと
思っています。
政治から離れた立場で→
国民の苦しみに 心を寄せたという過去の天皇の話は→
象徴という言葉で表すのに→
最もふさわしい あり方ではないかと思っています。
天皇皇后両陛下は

国民との距離を縮めようと→
新しいスタイルを
打ち出されてきました。
皇居の清掃をボランティアで行う
勤労奉仕。
全国から集まる人たちに→
お二人は できるだけ会って言葉を交わされています。
この日は 愛知県の農協の女性部と
福島県の赤十字奉仕団→
2つのグループが参加していました。
お二人は あらかじめ→
グループの日頃の活動を
頭に入れて 会われます。
(天皇陛下)
どうも 本当に ご苦労さまでした。
どうも ありがとうございます。
やはり今もバラは随分重要な?(女性)はい。→
全国の方に
出させて頂いて。そうですか。
(皇后陛下)種類が多くなってね。