2019/01/06(日) 13:50〜15:05 あの日 あのとき あの番組「象徴天皇 素顔の記録」[字]


被災者のやり場のない怒りや不安が高まっていると感じていました。
この被災地に 天皇陛下は→
なるべく早く行きたいという→
意向を示されました。
危険が残る→
被災地への
訪問は→
これまで
ほとんど例が→
ありません
でした。
長崎県が 宮内庁と検討した資料です。

天皇陛下からは「救援活動の妨げにならないように」という意向も→
伝えられていました。
検討の結果 随行員は宮内庁長官や侍従長など 10名以内に絞る。
車は 東京から持ち込まず→
県知事の公用車を使う。
昼食は レトルトカレーでも構わない。
その一方で 被災者と会われる機会は→
時間の許す限り 多く設定されました。
分刻みのスケジュールで→
避難所と仮設住宅 7か所を
訪問されることが決まりました。
大規模な火砕流から37日後の 7月10日。
お二人は 一般の乗客と一緒に定期便で長崎県に入られました。
この日も 雲仙普賢岳では
火砕流が発生し→
危険な状況が続いていました。
午後0時半。
(拍手)


お二人は 避難所の体育館に到着されました。
この時 鐘ヶ江市長は→
お二人のすぐ横で被災者とのやり取りを見ていました。
到着から1分後。
予期せぬことが起こりました。
まず天皇陛下。
続いて皇后さまが床に 膝をつかれました。
住民と同じ高さの目線で
話を 聞き始められたのです。
住民は 避難生活の厳しい現状を→
次々とお二人に→
訴えるように
なりました。
立光美佐子さん。
夫と 幼い3人の子どもと共に→
避難生活を送っていました。
皇后さまは 立光さんの長男に→
「お外で遊べないで大変ね」と→
声をかけられました。
(立光さんの長男)バイバイ。
その時の様子を 夫の一孝さんは写真に残していました。
ワイシャツを腕まくりされた
天皇陛下が→
避難所に溶け込んでいるように
感じたと言います。
(一孝)本当に自然な状態でね
お話をかけられる。→
本当に違和感もないし
本当に スムーズにやられるという。
だから 僕がカメラで撮った

天皇陛下が膝ついて→
本当に 目の前で
お話をされているというのがね→
特別なことじゃないと思って
シャッターを押したと思う。
(拍手)
お二人は ほかの避難所でも 膝をつき→
予定の時間を超えて
被災者の声に耳を傾けられました。
これ以降 お二人は→
大きな災害が起こると→
できるだけ早く被災地を
訪問されるようになりました。
復興が始まったあとも 再び被災地を訪れ
人々を励まされています。
今は どっちかって言えば みんな→
それが むしろ いわゆる平成流だというふうに→
思っていると思いますけど
最初の頃は→
随分 驚いた人もいただろうし→
あるいは 若干反発もあったんじゃないでしょうか。
天皇とあろうものが みたいなね。
だけど それは やっぱり→
陛下のお考えとは違うんだと思います。
両陛下がなさろうとしているのは→
むしろ… 国民と近い皇室
ということなんだと思います。
それで 近いという意味は 何も
物理的に近いというだけじゃなくて→
心と心という意味でも そうだし→

精神的な意味でね 近いということを→
大事にしておられるのではないかと
思います。
お二人は
社会的に弱い立場にある人たちの支援も→
続けてこられました。
ハンセン病の元患者へのお見舞い。
不当な差別を受けていた昭和40年代から→
度々 療養所などを訪ね励まされてきました。
障害者のスポーツの祭典 パラリンピック。