東陽技研工業として[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
ものづくりの町
新潟の三条で創業した>
<本社のショールームには[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
これまで作ってきた製品が飾られている。
たとえば こちらは
創業の頃 作っていた[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
灯油を使った 調理用のコンロ>
<更に 風呂釜。
ダイニチは こうした
加熱製品を作るメーカーだった。
そして 1971年
業務用石油ストーブを開発し[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
暖房機器に参入。
煤や 臭いが出ない画期的な商品は[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
青い炎で燃えることから
ブルーヒーターと名付けられた。
それを進化させ 80年には
家庭用の石油ファンヒーターを開発。
先行するメーカーが 着火まで
5分以上かかっていた時代に[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
40秒という速さを実現。
大ヒットとなった>
< そんな吉井の言葉を裏付ける[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
石油ファンヒーターの特集記事が残っていた。
そこには 他社と比較し
ダイニチの製品は[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
点火がしやすい 臭いが少ないと
評価され[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
三菱や日立といった
大手をおしのけ[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
Aクラスの評価を受けていた>
< だが 順風満帆なダイニチに転機が…>
<90年代に入ると エアコンが普及。
石油ファンヒーターは時代遅れと見られるように。
ダイニチの業績も 急激に悪化。
98年には初の赤字に転落したのだ>
< そんな厳しい時代に
舵取りを託されたのが[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
当時 専務を務めていた
吉井だった>
<生き残るためには
何をすればいいのか…。
模索する吉井に
再生の道は見えなかったという>
< ある日 現状を把握しようと
吉井は倉庫を訪れた。
そこにあったのは[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
うず高く積み上げられた在庫の山>
< まさに 危機的状況。
それは ダイニチだけでなく[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
部品を納めてくれる協力工場との
共倒れを意味していた>
<生産を続けるためには
在庫をさばかなければ…。
そこで 吉井が決断したのが[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
大幅値下げだった>
< それまで 1万5,000円ほどで
売っていたものを[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
原価ギリギリの1万円まで
値を下げて販売した。
すると これが大当たり。
20万台以上あった在庫がすべて売れたのだ。
このとき 吉井は思った。
1万円なら買ってくれる人はまだまだいる>
< そして 常識破りの策に出る。
衰退していく業界であえて増産に踏み切ったのだ。
当時 暖房器具メーカーは
12月に出荷を終えると[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
3か月間ほぼ休業状態
というのが当たり前だった>
< その常識に慣れきった社員を
吉井は説得。
1年を通じて
生産する体制に切り替えたのだ。
更に 下請けの地元企業にも
協力を仰いだ。
ここは 40年以上つきあいのある[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
ファンヒーターの電子部品を製造する会社。
通年生産で
発注量を増やす代わりに[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
単価を下げてもらうよう
依頼したのだ。
すると 意外な結果が>
<去年の暮れ 恒例となっている[外:583134B86E7D90960F64C5B863196978]
協力工場との忘年会が
開かれていた。
苦しい時代を
ともに生き延びてきた 同志たち。
会場は 笑顔にあふれていた>
エイエイオー!
< この団結力こそ
ダイニチの原動力なのだ>
僕 すごく聞きたい質問が
あってですね…。
それで 100万台作るためには
通年生産が必要だと。
そうです。
何してたって言われるとね…。社員の方々。
出稼ぎ?