袋小路に入り込んでしまいました。
その時の映像です。
車の後ろには 一直線の道路を駆け上がってきた津波が迫っています。
この時 澤口さんは
早く逃げなければと焦っていました。
バックしようと振り向いた時→
津波は すぐそこでした。
そして…。
なんとか逃げきりました。
助かった2人の姿です。
防潮堤を越える津波を撮影した小林義一さんです。
今回の津波をきっかけに→
子どもの頃 避難訓練の度に歌っていた歌を思い出しました。
歌ってみるべか。
♪♪~
繰り返し 津波の被害を受けてきた
田老の町。
小林さんの先祖も
明治や昭和の津波で→
命を落としてきました。
防潮堤は 昭和8年の津波のあと建設が始まりました。
最初に造られたのは 町を囲う形の防潮堤。
津波を外側に受け流して→
避難の時間を稼ごうという設計でした。
その20年後 新たな防潮堤が完成します。
今度は 津波を食い止めて防ごう
という発想で造られました。
2重の防潮堤が出来て→
人々の津波に対する意識は変わっていったといいます。
大津波の歌も いつしか
歌われることはなくなりました。
長い間 津波から町を守ってきた防潮堤。
その安心感から逃げようとしなかった人も→
少なくありません。
恵子さん お~い!
武蔵恵子さんです。
あの日 小林さんが撮影した映像です。
武蔵さんは
地震が起きたあとも避難せず→
自宅にいて 津波に巻き込まれました。
「津波到達を確認しています。→
予想される高さは 10m以上です。
危険です」。
近所に住んでいた兄も 避難せず
津波に流されて 亡くなりました。
車ごと津波にのみ込まれた
山本源一郎さんです。
町の防災対策は万全だと
信じ切っていました。
そういうことは考えますね。
津波から暮らしを守ろうと備えを進めてきた田老の人々。
いつしか 津波を恐れる気持ちは薄らぎ→
安心感も生まれていました。
巨大津波は
その隙を 容赦なく ついてきたのです。
被災地では この夏→
津波の犠牲者をしのぶ人の姿がありました。
家族 親戚 友人 大切な人を失いました。
半年を過ぎた今も 人々の心に津波の脅威が刻まれています。
町を焼き尽くし 万全と思われた備えも
打ち砕いた巨大津波。
想像を超えた
底知れぬ力を見せつけました。
巨大津波から 命を どう守るのか。
私たちは あの日を生き抜いた人たちの言葉と向き合い→
その手がかりを 探し続けていくのです。
♪♪~
震災から半年後に放送した
「NHKスペシャル」でしたけれども→
いかがでしたでしょうか?
いや~。
あの当時 強烈な映像は
たくさんありましたけども→
ああいう状況下で生き残った方々の…→
特に 船で1人乗って流されて どんな思いで…。
いや~…。
最後は 火もね 外についてきて。
いや~ あれも ちょっと
奇跡的でしたけれども。
生死を分けるっていうのは 何なのかな。
いろんなこと 考えさせられましたね。
気仙沼の津波の火災→
その中のお一人お一人が味わっていた恐怖 そして 不安。
それが ああいうものだったわけですね。
海が燃えるってあるのかなと思いましたよね。
まあ うちの妹の家が 本当に
炎に包まれた あの近くでしたから→
いや~ あの映像を見た時 うちの妹も
炎の中にいるんじゃないかとか→
やっぱり 安否確認ができない間は→
いろんなことを やっぱり考えただけで恐ろしくなってましたけれども。
今 私たちがいるのが 鹿折地区→
大規模な火災で壊滅的な被害を受けたところ。
ご夫婦で難を逃れた→
屋根を伝いながら命からがら高台に逃げた→
岡崎さんのお宅というのが→
ちょうど この公園のあそこの入り口の辺り。
崖を登ってたのは
この辺りになるわけですよね。
随分 よじ登って