2019/06/19(水) 22:30〜23:20 歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の“天下人”三好長慶」[解][字]


高槻でも 戦国時代→
2つの村の間で 水争いが起きます。
そこで長慶は→
家臣に 双方の村の言い分を
聞き取らせる一方→
中立の立場にある村にも
聞き取りを行い→
公平な解決を目指しました。

最後には自ら 判決を下したといいます。
更に長慶は 意外な人たちとも
関係を持ちました。
その証しが
こちらの部屋にあるといいます。
高槻市で出土した 戦国時代の人骨です。
ひつぎには 十字架。
そう キリシタンの遺骨です。
主の祈りを唱えましょう。
長慶は 1560年に京の都で
更に4年後には 全ての領地で→
キリスト教の布教を許可。


当時 宣教師たちがもたらした→
医術などの先進的な技術を
望んだと言われます。
南蛮文化に理解があった
織田信長より前に→
キリスト教を保護していました。
こうして 信長 秀吉 家康に先駆け天下人となった三好長慶。
応仁の乱から90年。
新たな時代の始まりでした。
ついに 天下人となった三好長慶。
しかし 当時 支配下に置いていたのは近畿や四国を含む 11か国。
それでも 天下人と言えるのには
理由があります。
実は戦国時代→
ポルトガルの宣教師が記した文献には→
「五畿内の領主が
天下の領主と呼ばれる」とあります。
「天下」は 「全国」という意味ではなく→
京都と その周辺の限られた地域を指しているというのです。
32歳で 天下を治めることになった長慶。
彼が理想とする世について述べたとされる言葉があります。
「理世安民」。
「世に道理を広め 民を安んじる」という意味の言葉です。
長慶は 人々が穏やかに暮らせる
秩序ある社会を→
目指したのかもしれません。
三好家は なぜ 歴史の表舞台から姿を消すことになったのか。
波乱万丈の人生
その絶頂と悲劇を ご覧頂きます。
(シャッター音)

現在 天皇の代替わりに行われる改元。
戦国時代には その多くが→
災害や飢饉など 世の中の不幸な状況を変えるため 行われました。
当時 改元は
天皇と 武家の代表である将軍が決定。
将軍は 儀式の費用を用意します。
更に 公家が年号を考え→
天皇が それを発表しました。
1558年 永禄の改元が行われた時→
時の正親町天皇が
パートナーに選んだのは→
三好長慶でした。
これは 長慶が 武家の代表者として認められた証しだといいます。
やはり もともと 阿波国の…
大阪・堺市にある 南宗寺。
ここに 永禄の改元の後→
三好長慶が 天皇から信頼を得たことをうかがわせるものがあります。
それが 銅像に刻まれた…
40歳の時 長慶は 天皇からこの紋を使うことを許されました。
実は この紋
天皇が 足利将軍や 信長・秀吉など→
世を治める実力者に
使用を許可したものでした。
名実ともに天下人となった 三好長慶。
ところが このころから次々と悲劇に見舞われます。
申し上げます!
何じゃ。
義興様 芥川山城にて
にわかの ご発病。
薬師が 手を尽くしましたが…。

長慶の一人息子で優れた武将と評判が高かった義興が→
亡くなったのです。
22歳の若さでした。
突然のことに 父・長慶は
嘆き悲しんだといいます。
既に 2人の弟を
亡くしていた長慶。
お家安泰のため
策を講じます。
(長慶)皆 義興と同様に
仕えてくれるよう。
ははっ。
ははっ。
後継者に
弟・十河一存の子→
義継を選んだのです。
なぜ 弟の冬康や他の甥ではなく→
義継の母は
名門の公家・九条家の出身。
長慶は 三好家が実力だけでなく→