2019/12/28(土) 23:00〜00:00 ETV特集・選「辺野古 基地に翻弄された戦後」[字]


暴行・殺害され 海岸に捨てられました。
基地の周辺で 犯罪が多発していたのです。

(泣き声)
沖縄では
人々のアメリカ軍基地への反発が→
日に日に強まっていきました。
新たな土地の接収に反対することなどを掲げ→
「島ぐるみ闘争」と呼ばれる
大規模な運動に発展していたのです。
ところが 突然…→
辺野古の人々は基地建設に同意します。
なぜ 住民は同意に転じたのか。
辺野古の人々の当時の思いを記録した音声テープが→
今回の取材で 新たに見つかりました。
辺野古住民7人の肉声が収められています。
切実な思いを語っていたのは
「音さん」という女性です。
地元の女性たちの まとめ役でした。
アメリカ軍との交渉に当たった嘉陽さん。
苦渋の決断だったと語っています。


基地建設を容認する代わりに→
辺野古の人々は
水道や電気を整備することや→
地元住民を 基地で優先的に
雇用することなどを求め→
アメリカ軍に受け入れられたのです。
住民の声を記録した このテープ。
実は ある意図をもって
沖縄で放送されていました。
「私は今 婦人として…」。
基地建設の歴史を研究する鳥山 淳さんに→
音声テープを分析してもらいました。
テープの中には 「特別放送 1月19日」と→
記されたものがあります。
放送は辺野古が基地を容認した1か月後→
島ぐるみ闘争のさなか 民間ラジオ局
「琉球放送」から行われました。
社史には
その日のことが記されています。
「1月19日には 突如→
『辺野古住民の声を琉球放送から放送せよ』という→
米軍の命により放送された。→
民間放送とはいえ 軍との契約でこれを拒むことができなかった」。
…ということだと思います。
辺野古が基地を受け入れた影響について→
沖縄統治のトップ
高等弁務官の事務所が→
本国に報告していたことが
今回の取材で明らかになりました。
「キャンプ・シュワブの交渉が

うまくいって以来→
アメリカの土地政策に反対する
根底が崩れた。→
団結は過去のものとなった」。
その後 キャンプ・シュワブの建設が進められていきます。
演習場や兵舎以外にも
映画館や教会などがつくられ→
「もう一つの町」ができていきました。
それに伴い 辺野古の町には→
アメリカ兵を相手に商売をしようと→
多くの人が移り住んできたのです。
「思いもよらない繁栄と成長が
辺野古にもたらされた」。
「人々は他の町から羨ましがられている」。
「その影響で金武村の200人の住民たちが→
基地建設を誘致してきた」。
その後 当時の金武村にあったキャンプ・ハンセンは 拡充され→
沖縄最大規模の基地となりました。
「島ぐるみ闘争」は やがて分裂。
東西冷戦下 アメリカ軍は→
沖縄での基地建設を更に拡大していったのです。
そして1960年代半ば
ベトナム戦争が激化すると→
辺野古の町は 大きく変わっていきます。
出撃するアメリカ軍の最前線となった沖縄。
キャンプ・シュワブのアメリカ兵も
大幅に増員され→
辺野古は活況を呈します。
200軒もの飲食店が立ち並び朝方まで にぎわったといいます。
おやつ作ったけど どうかな?

かつて薪を集めて生計を立てていた島袋初枝さん。
アメリカ兵相手のバーを開き
生活が一変したといいます。
こんにちは。
しかし 基地が 辺野古にもたらしたのは繁栄だけではありませんでした。
現在 金物店を営む…
西川さんは キャンプ・シュワブでガードマンとして働いていました。
基地の中を巡回している時→
ベトナム戦争の現実に直面したといいます。
西川さんが親しくしていた
アメリカ兵の中にも→
ベトナムへ派遣され 命を落とした人が
少なくありませんでした。
自分の仕事も 戦争につながっている。
西川さんは 待遇のよかった基地の仕事を辞めました。
このころ アメリカ本国では→
辺野古の基地の大幅な拡大がひそかに計画されていました。
「3,000mの滑走路が 2本平行に並ぶ」。
「海軍が保有している最大級の軍艦が接岸できる軍港」。
計画の完成図です。