2019/12/28(土) 23:00〜00:00 ETV特集・選「辺野古 基地に翻弄された戦後」[字]
巨大な滑走路と軍港を備えたこの施設は→
ベトナム戦争後の アメリカの戦略拠点
となることを目指したものでした。
現在 辺野古で行われている
工事と比べると→
規模は違いますが 滑走路と軍港を
あわせて運用するという方針は→
共通しています。
埋め立て予定地の辺野古沖など→
20か所以上で
ボーリング調査もなされていました。
沖縄を統治していた
琉球列島米国民政府は→
基地計画に対する住民の反応を
予想しています。
「およそ200人の住民の移転が必要なため→
政治的な問題になる。→
しかし この辺りは
経済的に貧しい地域なので→
反対運動は 大したことはないだろう」。
アメリカ軍基地の歴史を研究する川名晋史さんは→
この計画が 実現の一歩手前まで
進んでいたことを明らかにしました。
ジョンソン政権の時の
国防長官であります→
ロバート・マクナマラに宛てた
文書でございます。
「飛行場については
国防長官の承認待ちである」。
文書を書いたのは 軍のトップ
統合参謀本部の議長でした。
しかし ベトナム戦争が泥沼化する中
財政が ひっ迫。
辺野古の海に 巨大基地を造る計画は
この時 実現には至りませんでした。
日本国 万歳!
(一同)万歳! 万歳!
27年のアメリカ統治に
終止符が打たれました。
復帰によって 基地の負担が減ることを
期待していた 沖縄の人々。
♪♪~(「君が代」)
しかし 実際は キャンプ・シュワブを含むほとんどの基地が→
沖縄に残ることになりました。
復帰しても 基地の周りには変わらない現実がありました。
一家は キャンプ・シュワブができた頃
辺野古に移り住んできました。
金城さんの母 富子さんは バーで働き→
3人の子供を育てていました。
しかし 復帰から2年後の1974年→
突然 悲劇に襲われました。
僕が高校時代 その時にですね→
米兵に 強盗で殺されたんですよ。→
これはまた殺し方も凶悪で→
ブロックで頭割ってですね10ドルを持って 逃げてるわけですね。→
人間をこう簡単に殺すという恐ろしさ。
犯人のアメリカ兵は「日米地位協定」のため→
日本の法律で裁かれず
事件の詳細も明らかにされませんでした。
そのまま殺されたら殺されたで→
ただ新聞に載って終わるだけであって謝罪も来ないし。
本当に 沖縄県民が
こんな事件 遭った時には→
どうするかっていう具体的な提案も
示されないというのが分かってきたしね。
そして 辺野古の町のにぎわいも
急速に失われていきます。
駐留するアメリカ兵も減り
飲食店は 次々と店を閉めました。
基地に未来を託し
他の町から羨ましがられた 辺野古。
そのにぎわいは
20年と続かなかったのです。
♪♪~
1990年代。 辺野古の名前は突如 全国に知られるようになります。
きっかけは 1995年に起きた
アメリカ兵による少女暴行事件。
人々の間で
基地撤去の声が わき上がりました。
よくとし 日米両政府は
基地負担の軽減策を打ち出します。
市街地の真ん中にある 普天間基地の返還。
しかし 沖縄県内へ移設するという条件が付けられました。
1996年12月に
日米両政府が発表した報告書。
移設先として
「沖縄本島の東海岸沖」とだけ→
記されていました。
交渉に参加していた…
当時のね…→
日米の担当者 トップまで含めてね→
もう暗黙の了解でね
辺野古沖だったんですよ。
シュワブ沖っていいますかね
キャンプ・シュワブ沖っていいますかね。
やっぱり なかなか それをね…
その 何ていいますかね→
最初から言うっていうわけにはいかない
っていうことで→
「東海岸」という言い方になったんです。