ことばが通じなかったという こんな例も。
戊辰戦争で 伊藤博文が
山形の武士を取り調べする時→
ことばが通じないので→
「問う 年 如何に?」と単語を並べ 質問したとか…。
東と西の人が縁談の相談をする時
ことばが通じないので→
語尾に「なになに候」と付ける
書きことばで話をした… などの→
記録も残っています。
確かに 今でも青森と鹿児島とでは→
随分と
ことばが違います。
両県の方に 「おくにことば」で…
まず 青森の方は…。
要約すると 「私は食い道楽だから
アカガイが食べたいけど→
高くて困っている」と
おっしゃっています。
一方 鹿児島の方は…。
こちらの方は…
…と おっしゃっています。
まさに当時は このような状態。
これでは 会話をするのは
難しいかもしれませんね。
現在のように
テレビやラジオはありません。
ふだん使っていることばを疑うことなく
話していた日本人にとって→
共通のことばが
どうしても必要となる時代が訪れます。
明治となり 日本は中央政府が
全国を治めることになりました。
日本を一つの国にまとめあげるためには→
誰もが共通して理解できる一つのことばつまり標準語が必要だという声が→
明治20年代後半に高まっていきます。
その中で 日本を一つの国にするためのことばを「国語」と呼ぶようになり→
それを教える授業は
「国語」となったそうです。
東京帝国大学
文学部長を務めた上田万年が→
「国語」ということばを
使い→
日本の発展には ことばが
重要だと説いたことも→
大きなきっかけと
なったそうです。
しかし ここで…
政府は専門の委員をつくり…
そして
首都・東京のことばか→
長く日本の中心だった
京都のことばか→
2つの候補に
絞られました。
しかし そこから…
その訳は…。
先生によると 「標準語は京都のことばに
すべきだ」と主張していた人たちが→
亡くなっていったこともあり…。
明治37年標準語問題に一応の決着がつきます。
それが…。
東京の教養ある人々が使うことばを標準語とし→
それを子供たちに教えることが
決まったのです。
しかし…
標準語は京都弁になっていたかもしれへんのどす。
こうして 日本語は「国語」と呼ばれ→
みんなが同じことばを理解できるようになったのです。
ところで 長年 日本語を研究してきた
清水先生にも…
ということで…
みんなに使って頂きたいです。そうですね。
「国語」ということばを決める際にですね→
書く文字も どうしようかというふうに議論になったということなんですね。→
例えば「漢字を使わない」とか
「すべてローマ字にしよう」などとする→
案もあったそうなんですけども
採用されなかったのは→
既に国民の多くが
漢字やひらがなを使っていたので→
やはり やめると
逆に混乱するのではないかという→
意見があったからだということです。
なるほどね~。
やっぱ あの~…
「ナニナニやと~」みたいな。女性の方が そうやって言うと…。
逆に…
どういう意味?
(森山)怖い怖い怖い。
あら かわい怖いわ。
ねえねえ 岡村。
はい。
お正月
終わったんだけど…
世間では
ゴールデンウイークって言うわね。
そうか~。
来ちゃうのよ。
ということは 早くも始めます!