花の出来栄えに加え 名前のインパクトで多くの人を引きつけてきた。
[外:E806D1481CFA721DA5F60413531F39BD]
そんな鷲澤さんの携帯電話にはひっきりなしに連絡が入る。
ダリアの栽培を始めた生産者からのSOS。
鷲澤さんは 時に現場に足を運んでは→
栽培のコツを惜しげもなく伝授する。
鷲澤さんの原動力は愛情を込めて生み出したダリアを→
少しでも多くの人に届けること。
♪♪~
8月末 ついに
新しい品種のダリアが咲き始めた。
(取材者)どれですか?
ちょっと行ってみましょう。
(取材者)どうしてですか?
ところが 鷲澤が思わぬことを始めた。
次々と花を抜いていく。
花が咲けば すぐに虫が来て虫媒が始まる。
その前に 交配させる価値のある
花を見極める。
丹精込めて育ててきた中で残すのは
半分以下。
可能性のある花を
瞬時に判別する眼力こそが→
鷲澤最大の武器だ。
来る日も来る日も 鷲澤は花を選別し続ける。
これまで 何万もの新品種を見てきた鷲澤。
しかし 100点満点と言える花は まだない。
その花に魅せられて 早32年。
ダリアの神様は 今日も畑に立つ。
はい はい はい…。
はい いいですよ はい どうぞ。
はい はい。
(受け付け女性)傘 日よけ代わりに…あの 傘 日よけ代わりにお使い下さい。
(女性)ありがとうございます。
ありがとうございます。
ええ~ うれしい!
(女性)ありがとうございます。うれしい やったぁ!
(鷲澤)おいしいや うん うめえ 甘い甘い。
仕事帰り。
鷲澤さんは必ずスーパーへ立ち寄る。
お~い。
晩ご飯の食材を買うためだ。
好物はマグロの赤身。
長年 連れ添った妻は
5年前に認知症になった。
鷲澤さんは それを自分のせいだと言う。
ダリアに人生をささげた男と 家族の物語。
鷲澤さんには 幼い頃の写真が一枚もない。
昭和22年 秋田の小京都 角館で生まれた。
家は貧しく
1歳になる前に養子に出された。
義理の両親は優しかったが→
「捨てられた」という思いが消えることはなかった。
ダリアと出会ったのは
小学1年生の時だった。
義理の母の葬儀でのこと。
子供心に その美しさが心に残った。
鷲澤さんは 18歳で高校を卒業すると→
孤独感から逃げるように秋田を離れ 上京。
東京の船会社に就職すると
船のエンジニアとして 世界中を回った。
仕事を始めて2年目→
カナダ・バンクーバーの港に立ち寄った時のことだった。
鷲澤さんは ダリアと再会した。
立派なダリアが家々を飾り家族に笑顔をもたらしていた。
それは 自分が子どもの頃にはなかった
幸せの形だった。
鷲澤さんは ダリアを育てたいと思った。
しかし 日本では当時ダリアは仏壇に供えられる地味な花で→
採算は見込めない。
花業界でも「負の遺産」とまで言われるほどだった。
鷲澤さんには 見捨てられたその姿が
幼い頃の自分と重なった。
秋田に戻って 荒れ地を開墾。
独学でダリアを育て始めた。
40歳での再出発。
周りからは狂ったと言われ親族からも見放された。
その中で たった一人
支えてくれた人がいた。
それは…
そこまで言ったからね。
ヒフミさんは
鷲澤さんの代わりに外で働き→
家計を支えた。
3人の息子を抱えながら家事も育児も一人でこなした。
雨風や 日照りなどから
ダリアを守ろうと→
畑の脇の小屋で
寝泊まりするようになった。
それでもヒフミさんは 「あなたは
ダリアと結婚したのね」と言って→
耐え続けてくれた。
そんな日々が10年続いた ある夏のこと。
人工交配をしていなかった畑の隅で
見たことのないダリアが咲いた。
陰りのある不思議な色と
羽のように うねる花びら。
鷲澤さんは そのダリアを
「黒蝶」と名付けた。
黒蝶は 花業界に衝撃を与えた。