2020/12/08(火) 22:30〜23:15 プロフェッショナル「限りない探究心が、謎を解く〜文化財復元・馬場良治〜」[解][字]


だが こうした構図は周囲のふすま絵には存在しない。
馬場は 2日かけて積み上げたものを

あっさりと捨てた。
山だと考えたところは→
紅葉の墨の痕跡だと気付いた。
紅葉ならば 周りの絵の状況や
馬場の経験とも合致し→
違和感がなかった。
ほんで もうちょっと…。
更に 馬場の目は
絵の奥深くにあるものを見つめていた。
この絵を描いた 狩野光信は→
歴史上 名高い 狩野永徳の長男として生まれた人物だった。
馬場は その手に
狩野光信を宿らせようと→
筆を動かす。
(馬場)こういうふうに引いてる。こういうふうに こういうふうに。
絵と向き合うこと 12日。
ふすま絵に狩野光信の描いた線がよみがえった。
だが このあと


更なる難題に馬場は挑むことになる。
馬場さんは 食べるものも
なるべく自分で作る。
米作りは 50歳から始めた。
昭和24年 兼業農家の長男として山口で生まれた 馬場さん。
勉強が得意ではなく→
子供の頃からコンプレックスを抱いていた。
大学受験に失敗し
高校を出ると 料亭などで働いた。
自分に自信を持てないまま
自分探しの日々が続いた。
結局 3回浪人した末に→
26歳で 芸術大学に入学。
そこで日本画を学んだ馬場さんは
卒業間際 文化財の復元と出会った。
第一人者の山[外:3F642F3778827E651C8B82A4E9F06FD3]昭二郎さんが→
手伝ってくれる人を募っていた。
馬場さんは卒業後 画家を目指しながら
山[外:3F642F3778827E651C8B82A4E9F06FD3]さんのもとで 復元の仕事も始めた。
でも その仕事を好きにはなれず
向き合う姿勢は中途半端だった。
かといって 画家としても
展覧会で落選が続き→
展望は開けなかった。
食べていくためにデザインの仕事も手がけた。
シャツや下着 紙袋など
何でも こなした。
幸い デザインの仕事は軌道に乗り
30代半ばで 東京に事務所を構えた。
でも…。

そのころプライベートでも挫折を味わった。
思いを寄せていた女性との結婚が
かなわなかった。
そんな39歳の時だった。
突然 病に襲われた。
馬場さんは将来を悲観し
自暴自棄になった。
群馬の山奥に行き
車に遺書を残し 登った。
すると…。
そして…。
死のふちから戻ってきた馬場さんは
自分を見つめ直した。
40歳からの再出発。
自分は何をすべきかを考え→
復元の仕事に 改めて打ち込み始めた。
目の前の絵と必死に向き合ううち→
気付かなかったものが
少しずつ見えてきた。
そんな姿勢で仕事に取り組み始めた
ある日→
師である山[外:3F642F3778827E651C8B82A4E9F06FD3]さんから 言われた。
ずっと 自分に自信を持てなかった。
何をやっても 中途半端だった。
やっと生きる道を見つけた。
馬場さんは精進を重ね
その仕事ぶりは評価され→
50代になる頃には
依頼が殺到するようになった。
そして 71歳の今も→

懸命に打ち込んでいる。
今年1月。
馬場は 国宝 勧学院客殿のふすま絵と向き合っていた。
今回の仕事には→
馬場も経験したことのない大きな課題があった。
それは ふすま絵の背景に使われている
金箔だった。
この絵の金箔には→
「箔足」と呼ばれる縁や線のようなものがあり→
濃淡の模様を生んでいる。
更に 金箔全体にうっすらとした赤みがあり→
味わいを加えていた。
これは 現代の金箔にはないものだった。
こうした独特の風合いを→
当時の姿のまま よみがえらせたいと馬場は考えていた。
馬場は 金箔の赤みについて研究を重ね
一つの仮説を立てた。
当時の金箔は 現代よりも
銅の成分が多く含まれているため→
赤みが生じているのではないか。