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宮城県気仙沼市に来ています。
2万2,000人を超える 死者・行方不明者を出した東日本大震災から→
間もなく8年を迎えようとしています。
こんにちは。 「あの日 あのとき あの番組」シリーズ平成。
今回は 震災の年に放送した
「NHKスペシャル」を通して→
巨大津波の脅威 そして 浮き彫りになった
課題を見つめてまいります。
ゲストの方をご紹介いたしましょう。
ここ 気仙沼ご出身のフリーアナウンサー生島ヒロシさんです。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
ここ 気仙沼では
津波と そのあとの火災で→
死者・行方不明者が1,300人を超える…。
大変な数になりましたね。
大きな被害になりましたね。
それから8年近くがたって→
ふるさとを 今
どんな思いで ご覧になっていますか?
そうですね
まあ 正直言って 復旧・復興に→
5年ぐらいかなと思ってたんですが
やはり なかなかね 難しいですね。
まあ ご覧になって頂けると
分かると思うんですが→
いわゆる これは
創造的復興っていうんですかね。
つまり これからも 震災があっても→
できるだけ 防災・減災対策を踏まえた町づくりということで→
この かさ上げをしてですね
できるだけ 大きな津波が来ても→
大丈夫なようにということですけど。
今 ここは 震災のあとに出来たばかりのおしゃれなカフェになって…。
何か 昭和20年代に生まれた
気仙沼人としては→
おしゃれだなと思いますけど。
しかし 片や こういう建物が出来て→
人が入っている一方で
向こうでは まだ かさ上げの工事が→
続いてるということなんですね。
そうですよね。
まあ やっぱり 当然
商売してらっしゃった方々もね→
やめざるをえないような方も
いらっしゃると思うし。
一度 震災後 再開したんだけれども
工事のために→
また やめなきゃいけない
というような状態に…。そうですよね。
まあ 残念ながらね
被害の面積も広いですし→
まあ なかなか 時間かかるんで
皆さん方がね 今後→
大きな借財を背負ってらっしゃる方は
また新たにですね…→
僕ぐらいの年代の方だと
「また借金するのは嫌だ」っていう方も→
いらっしゃって 「もう引退した!」
っていう仲間もいますね。
それぞれの問題があって
なかなか思うように進んできてない→
というところですね。
本当ですよね。
生島さんのご実家というのは
食堂をされていて…。そうです。
生島さんは 4人きょうだいで…。
そうです 長男でね。
まあ あのころはね
夜のね 11時 12時まで→
もう 全国の船員さんが
やって来るわけですよ。
だから 四国なまりの方がいらっしゃれば
静岡のなまり 北海道の方とか…。
だから 僕は お店にいながら
随分 手伝ってましたから。
それぐらい
漁業で栄えてたってことなんですね。
そうなんですよね。
ところが 3.11で牙をむきましてね→
もう モノトーンの町に
なってしまいましたけど。
妹さんが 今回の震災で亡くなられたと…。
実はですね うちの妹も→
昭和28年生まれで
チリ地震津波 1960年 体験して→
僕は 妹の手を引いて 裏山に登って
助かったんですけれども。
いわゆる 気仙沼の人とか
地震と津波に慣れていて…→
一種の警報慣れ
「まあ どっちみち 来たって→
大したことないだろう」
っていうのがあったと思いますね。
だから まあ 逃げ遅れてしまったのかな
っていうことで。
どんな思いで あの日
津波の衝撃を受けたのかなとか→
随分 やっぱり