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2019/07/02(火) 22:30〜23:20 プロフェッショナル 仕事の流儀▽世界一の掃除さらなる高みへ〜清掃員・新津春子[解][字]


そして去年 会社が立ち上げた→
この スタッフ5人の

小さな部署への異動を志願した。
新津さんが始めた 新たな仕事。
それは…。
一般家庭のハウスクリーニングだ。
早速 取りかかろうとした新津さん。
あることに気づき
スタッフに別の指示を出した。
新津さんは 臭いの原因の一つが
この玄関の隅のホコリだと見抜いた。
でも 家の清掃には
空港とは また違った難しさがあった。
家庭ごとに素材も違えば
傷み方 汚れ具合もさまざま。
空港では経験できない
新たな汚れと向き合いたい。
そう考え この部署を選んだという。
進化をやめようとしない新津さんが→
常に工夫を凝らしているのが その道具。


特にこだわる道具の一つが自分で削って作るという この竹べらだ。
竹べらは 頑丈でありながら
素材を傷つけない しなやかさもあると→
新津さんは着目。
年々 その数を増やし今では常時10種類ほど持っていく。
時には 現場に行ってから 新たに
その場で削って作ることもあるという。
そのための竹のストックが なんと…。
その他 ブラシ類などの道具も新津さんは どこまでも探求をやめない。
中には…。
で こういうもの… あと これが…
でも これは すごいんですよ。
暮らしの中で 清掃に使えそうだと思えば何でも試すのが新津流。
ハウスクリーニングに挑み始めてからは
道具の数は格段に増え→
今や 300種類を超えた。
更に 新津さんは 会社の一角に→
ハウスクリーニングの
練習場所まで設けた。
ここで毎日 新たな道具のテストや
練習に励んでいる。
(新津)笑うけど これ…
昼休み。 新津さんは いつも同僚と一緒に ごはんを食べる。
この日 誘ったのは 体調を崩し
しばらく現場を離れていた仲間だ。
清掃という仕事を
17歳から続けてきた新津さん。
そこには 逆境を生き抜いてきた
壮絶な半生がある。
新津さんは 昭和45年

中国の瀋陽で生まれた。
父親は 第2次世界大戦の時
旧満州に取り残された→
いわゆる 日本人残留孤児。
その後 中国人の母と出会って 結婚。新津さんが生まれた。
小学生の頃から 日本人というだけで
さまざまな いじめを受けた。
17歳の時 一家は
日本に向かうことになった。
ところが 期待していた日本も
心安まる場所ではなかった。
「中国人は帰れ」。
編入先の高校に行くと また心ない言葉を投げられ いじめられた。
苦しみは それだけではなかった。
両親も すぐには定職に就けず一家の生活は 極めて厳しい。
高校生の新津さんは 唯一
雇ってくれた 清掃員のアルバイトを→
早朝も夜もこなし 生活費を稼いだ。
だが その仕事場でも向けられる視線の冷たさに→
言いようのない思いが込み上げた。
存在を認められず居場所のない自分。
23歳の時だった。
新津さんは 羽田空港の清掃員として働き始めた。
鈴木 優さん。
汚れや洗剤のことで分からないことはないといわれる→
業界のエキスパートだった。
新津さんは 鈴木さんの熱血指導を受けるうちに→
だが いくら頑張っても 鈴木さんは→
新津さんの仕事ぶりを褒めることは一度もなかった。
いつも同じ言葉が返ってきた。

がむしゃらに学び続けて3年が過ぎた。
ある日 新津さんは 鈴木さんから→
全国の清掃員が腕を競う技能選手権への出場を打診される。
腕には自信があった。
ところが 絶対1位になれると思った予選会の成績は2位だった。
一体 自分に何が足りないというのだろう。
そんなある日 鈴木さんが新津さんの掃除を止め 言った。
初めて 鈴木さんから言われ続けて
きたことが 分かった気がした。
技術だけでなく
その場を使う人を思いやり→
見えない箇所や においまで
配慮する姿勢が大切なのだ。
そうして2か月 鈴木さんと特訓を重ね→
ついに臨んだ 技能選手権の全国大会。
新津さんは見事に日本一に輝いた。
おめでとうございました。(拍手)
すぐに それを鈴木さんに知らせると
返ってきたのは意外な言葉だった。
ごめんね…。

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