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2020/11/24(火) 12:00〜12:45 先人たちの底力 知恵泉▽家康をつくった三方ヶ原の戦い 失敗こそ成功への指針[解][字][再]


みたいな。
喜ぶ時は喜べよみたいな。
なるほど。
だから その時は その時で
勝った時でいいんですけど→
負けた時は やっぱり みんなで反省して
やっぱり 次戦うべく→
その練習しなきゃいけないんだと

思うんですけどね。
さあさあ 家康の三方ヶ原の戦いに
ちょっと話を戻しますけれども→
信玄の陽動作戦があったとはいえ→
みすみす負けると分かっていて出ていくのは→
ちょっとリスクがあるかなと
思うんですよね。そうですよね。
あの状況で 家康には→
出陣しなければならない理由があったということなんです。へえ~。
三方ヶ原の戦いで
武田信玄に大惨敗した徳川家康。
しかし 城にとどまって


籠城する選択もあったはずです。
信玄の陽動作戦が巧みだったとはいえ…
家康は 何が何でも信玄と戦わなければならなかったのです。
三方ヶ原での合戦直前
浜松城での家康の様子を見てみましょう。
信玄が急激な勢いで
遠江に侵攻してきた時→
家康は浜松城で
籠城の準備を進めていました。
信玄は浜松城の手前にある二俣城を攻め→
陥落に2か月を要していました。
家康は 堅ろうな浜松城であれば
もっと長い時間持ちこたえることができ→
信玄を足止めできると考えていたのです。
それを忠実に守ろうとしたんだっていうことですね。
しかし 信玄軍は
浜松城を素通りしてしまいます。
この時 家康は
激しく憤ったといわれています。
戦国時代 侵攻する行く手にある城は
必ず落として進むのが定石だったのです。
メンツを潰された家康ですが→
追ったところで勝つのは かなり難しい戦い。
籠城すべきか 信玄を追うべきか
ジレンマを抱えます。
家康は この時 合戦すると決意。
家臣たちも同じように悔しい思いを抱えていましたが→
「信玄は合戦慣れしています」と
口々に引き止めました。
家康は こう言います。

「信玄は我が城を素通りするのに→
城内にとどまるのは 情けないことだ。→
負けるかもしれないが 合戦すべき」。
このまま信玄を見逃せば 笑い者となり
家臣も離れていくかもしれない。
後に忠誠心が強いといわれた
三河武士団も→
当時は
決して一枚岩ではありませんでした。
実は 永禄6年→
家康の本拠地 三河で一向一揆が起こった時。
後に重臣となった本多正信らに離反され→
敵対したこともあったのです。
更に 信長の同盟者として→
信玄をやすやすと通すわけにもいきません。
足止めせよという信長の命令に
背くことになってしまいます。
家康は…
そして 三方ヶ原台地へ進撃した家康を→
信玄は3万の軍勢で
待ち構えていたのです。
しかも 何層にも陣を重ね
中央突破をねらう魚鱗の陣。
対して1万1千の家康軍は→
鶴が翼を広げたような鶴翼の陣を敷きます。
少ない軍勢でも
周囲を囲い込むことによって→
信玄軍を抑え込むことができるかも
しれないと考えたのでしょうか。
苦肉の策で挑みました。

午後4時戦いの火蓋は切って落とされました。
先に動いたのは 家康軍。
魚鱗の陣の細い先頭を切り崩します。
しかし すぐに信玄軍が
側面から縦横無尽に攻撃を開始。
兵の数が少ない家康軍は
たちまち陣形を崩されて→
後退せざるをえなくなったのです。
負け戦が決まると家臣たちは家康の命を守るため→
一丸となって家康を囲み
退陣させようとします。
しかし 信玄軍の追撃の手が
緩むことはありません。
「徳川実紀」に 次のようにあります。
ここで討ち死にすると言ってきかない家康を→
家臣の夏目吉信が
無理やり浜松城へ向けさせると…。
と言って
身代わりとなって討ち死にした。
また 家康が身にまとっていた

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