そっと近づきました。
震災以降 人知れず抱え続けていた思いを
ようやく打ち明けることができたのは→
中学1年生の時でした。
その相手はテレビ局のディレクターでした。
「そういう 起きたら 何か…
知らんとこにいるみたいな→
そんな感じで…」。
大阪の民間放送局に勤める迫川 緑さんです。
家族の密着取材をしていました。
母や弟の死に向き合いながら家族の日々を記録していた迫川さん。
映像には 初めて胸の内をさらけ出した
という場面が残されていました。
元気 そんなふうに思ってるのか
って思うし。
少しずつ 気持ちを表に出すようになった
元気さん。
小学校の担任 酒井先生は
その成長をそっと見守り続けていました。
折に触れ 元気さんを気遣う手紙を
届けていました。
家族も傷ついた中→
周囲の大人たちの存在が自分を支えてくれたと→
元気さんは感じています。
大人になり 元気さんが就いた仕事は小学校の先生。
あの時の酒井先生と同じように→
子どもたちと向き合う日々を送っています。
思いやりとは 言葉にすると…。
つらい記憶を打ち明けられなかったあの時。
今では 少しでも知ってもらいたいと
思えるようになりました。
…というのを ちょっと考えて
ノートに書いてほしいな。
「震災を経験したからこそ
今の自分がある」。
元気さんは 各地で
自らの体験を語るようになっています。
周囲の支えを受けて 震災のつらさを
打ち明けられるようになった→
長谷川元気さん。
子どもの頃 同じような経験をした人が数多くいることが→
調査からも明らかになりました。
被災程度が高い人ほど→
家族には つらい体験を
打ち明けていませんでした。
そうした人が 心境の変化の
きっかけとして挙げたのが→
近所の大人や 学校の先生など→
家族以外の大人の存在でした。
一方 調査では 震災の体験を→
前向きに捉えていない人が→
今も 4割いることが分かりました。
その回答を詳しく分析すると意外な事実が分かりました。
震災の体験を消し去ってしまいたい
という設問に対し→
7割を超える人が
「そう思わない」と→
否定していたのです。
今日は よろしくお願いします。お願いします。
相反する心の内を記した一人→
内之宮継子さん 38歳です。
中学1年生の時に被災し
母親を亡くしました。
なぜ つらい体験を消し去りたくないと
答えたのでしょうか?
兵庫県尼崎市の上空です。
25年前のあの日 尼崎市にあった木造2階建ての自宅は全壊。
母親と4人の子どもたちは
崩れた家の下敷きになりました。
継子さんと きょうだいたちは
レスキュー隊によって→
一命を取り留めました。
しかし 母の千寿子さんは→
助かりませんでした。
震災から2か月後仮設住宅で避難生活を送る→
継子さん家族の映像が残されていました。
4人きょうだいの長女。
家族の支えにならなければと→
母が担っていた家事のほとんどを引き受けることにしました。
夜が明ける前に起き
家族全員の食事を作る毎日。
母の記憶をたどりながら
作ろうとしますが→
思うようにはいきませんでした。
死を意識するほど追い詰められていた継子さん。
それでも
母の代わりを果たさなければと→
自らの心には蓋をして
毎日を過ごしました。
親を亡くした子どもが集う 遺児の会。
ここでも本音を語ることはありませんでした。
夜中に 一人 家を抜け出し
街をさまようこともあったといいます。
おう。
この間は ありがとう。
あの当時の記憶は 今も
しこりとなっているといいます。
誰の負担にもならず
一人で生きていくことを→
意識するようになった継子さん。