戴帽式の日の写真です。
実家を離れ 経済的に自立するために
目指したのが 看護の仕事です。
失礼しま~す。
今日担当の内之宮ですよ~。お願いします。
よろしくお願いいたします。
覚悟を決めて飛び込んだ 看護の道。
その仕事が
継子さんに変化をもたらします。
重い病気やケガと闘う患者たちと
向き合う毎日。
あ~ 肝臓ね うんうん…。
キャリアを積む中で→
指導にあたる後輩たちも
増えてきました。
もう「うちの子たち」みたいな感じなんで。
今回の調査で継子さんは今の心境について こう記していました。
「人の役に立てる事に
喜びを感じています。→
これからも がんばります」。
分からんかな? フフフ…。
これまで独身生活を続けてきた 継子さん。
今も 子どもを持つことは考えられないといいます。
心の中に震災を抱えて生きてきた人生。
その自分を受け入れながらこれからを歩んでいこうとしています。
子ども時代に震災を経験し→
整理のつかない複雑な気持ちを抱えながら→
25年を生きてきた人たち。
今回の調査では 震災の経験が→
その後の生き方に どう影響したか
聞きました。
人生の使命とは何かを考えるようになった
という設問に対し→
被災度が高い人ほど→
「そう思う」と答える傾向があると分かりました。
震災から25年の歳月。
それは 子どもが大人になり社会的立場の変化をもたらす→
年月でもあります。
今回の調査では結婚や子どもの誕生によって→
震災の捉え方が かつてに比べて
変化している様子も見えてきました。
結婚し 夫や妻になったこと→
子どもが誕生し 親になったこと→
それをきっかけに心境が変化し→
「震災の記憶がよみがえった」→
「震災の見え方が昔と変わった」→
という人がいたのです。
父を亡くした[外:27F0C69A76BF571D6DC25DB389D20779]橋 朗さん 35歳です。
妻と3人の子どもがいます。
この25年で 朗さんが
最もつらいと感じたのは→
震災直後ではありません。
実は念願の子どもを授かった時のことでした。
父の修さんです。
子どもたちと過ごす時間を何より大切にする 優しい父親でした。
地震によって起きた火災で
焼け野原となった 神戸市長田区。
父は ここで働いていました。
パン屋を営んでいた父 修さん。
地震で建物が崩れ 下敷きになりました。
火の手が迫る中 父が残した最期の言葉。
それは
「息子たちをよろしく頼む」でした。
震災直後の朗さんです。
当時10歳 この時 朗さんは自分の気持ちをしまい込み→
悲しみに暮れる母のことを
気にかけていました。
えっ ごめん 何?
えっ?何?
やっぱ 自分で守る…
自分というか あの…。
友達と遊びに行くと言って
出かける朗さん。
母には黙って 父が亡くなった店の跡地を
訪ねていました。
父のことをもっと知りたいと感じていた
朗さん。
しかし 誰にも聞けないまま
大人になっていきました。
今 3人の子の父親となった朗さん。
8×6 48。 8×7 56。 8×8 64…。
長男の幸太くんは→
小学2年生になりました。
親になり 新たな苦しみと向き合う日々。
朗さんは 父の知り合いを訪ねるようになりました。
父と 20年以上の友人
古市忠夫さんです。
自分の知らない父の姿を
教えてもらおうとしています。
失礼します。
俺 ちょっと腰 痛いから…。
いやいや 全然全然…。
ハハハ そうなんや…。
「修 持ってないか?」って言うたら
持っとる。
へえ~。 準備しとるん?
そういうね… さっき 言うたように…
用意周到?
うん そうそう…。
♪♪~