特殊清掃業者が入っていました。
亡くなっていた 舘 進さん。
30代半ばで職を失いその後 派遣会社を転々としていました。
ちゃんと ご自身でね 洗濯もして。
洗濯 干したままっていう状態ですけど。
収入が安定せず
結婚することはありませんでした。
「明日… あさって…
あさって着くんだけど…」。
生きてる人の気休めみたいなもんだよね。
留守番電話に声を残していた姉の百合子さん。
年々 足が弱くなり
遠出することはできません。
離れて暮らす 姉と弟。
10年以上 行き来はありませんでした。
「いや~ 姉ちゃんの声 聞きたかったんだ」
っていう電話 来たことあるの。
日記見たけど それは書いてないのよ。
物送ったりしたのは書いてんだけど。ただ それが→
いつだったかなと思ったけどね
思い出せないの。
ただ そうやって
いっぺんだけ来た それが→
「さいなら」っていう最期の言葉かなって→
そう思ったの。 いっぺんだけね。
孤独の中 独り亡くなっていた 舘さん。
自治体によって 火葬されていました。
家族を作らず
独りで生きていく人たちが急増する時代。
20年後 推計では→
女性の4人に1人男性の3人に1人が→
生涯未婚になると見られています。
私たちは 1年をかけて→
100人を超える人たちの
死までの軌跡を追ってきました。
無縁社会の広がりを
どうすれば食い止められるのか。
その手がかりとなる男性がいたことを
知りました。
私たちが取材したのは 去年4月→
行旅死亡人として亡くなった男性→
自称 木下敬二さんです。
この「敬二」という名前には→
男性の願いが込められていたことが
分かりました。
「第二の人生は 敬われて生きたい」と
名前を変えていたのです。
木下さんは 30代の初めごろ→
離婚し 仕事も失いました。
幼い2人の娘と別れ→
ふるさと 京都から 東京へ出てきました。
この時 社会とのつながりを
全て なくしていました。
木下さんが第二の人生をスタートさせる
きっかけとなったのは→
ある少女との出会いでした。
当時9歳だった 宇佐美智子さん。
今 保育士をしています。
この保育園の園長の娘でここで生まれ 育ちました。
保育園の屋根の向こうにあるアパート。
木下さんは 当時近くの工場で働きながら→
ここで 独り 暮らしていました。
「おじさん 病気なの? どっか痛いの?」。
木下さんが亡くなる前に
智子さんに贈ったアルバムです。
「めがねのおじさんから 智ちゃんへ。→
東京へ来て しばらくした頃→
毎日 アパートの壁と にらめっこして→
さみしくて困ったことがありました。→
その時 2人が よく遊びに来てくれて→
わいわいとにぎやかにやってくれたので→
大変 助かりました」。
「そのお礼にこのアルバムを 一生懸命に作ります」。
「大きくなった時→
このアルバムを見て小さい頃を思い出し→
ほんのちょっぴりでも
おじさんのことを思い出してくれたら→
とてもうれしいと思います」。
「第二の人生は 敬われたい」と願った木下敬二さん。
保育園のシンボル ドングリの絵を
描き残しました。
♪♪~
無縁死 3万2,000人。
浮かび上がってきたのは→
安心して老いることができない社会→
安心して
死ぬことさえできない社会の姿でした。
無縁社会。
つながりを失った人たちは今も 置き去りにされたままです。
♪♪~
2010年放送の「NHKスペシャル無縁社会」でしたけれども→
9年前の放送を改めてご覧になって
いかがでしたでしょうか。あのね→
2010年の時にも 見終わったあとにね→
「は~」っていう感じになったんですけども→
9年たって より一層ね この深いため息に
なってしまったなと思いました。
番組の中では 無縁死が拡大してしまう→
兆しがあるっていう表現だったんだけどその予兆が 残念ながら→
現実になっちゃったんだなっていうのを→