「自分っていうものを消す」「自分っていうものがない」という話と→
今の 「自分になっていく」というか
「なりえた自分」っていう→
その2つ… 何だろう。
ある意味 相反してるんですけど→
そもそも
人間っていうもの自体が えっと…。
例えば 僕と中村さんが→
魂が入れ替わるとするじゃないですか。
ハハハハ…! いやいや…!
そうなったことを→
すごく生々しく考えていくと…
怖いですね! へえ~!
人間の魂っていうか 本来の人格って→
その状況とかそこに置かれている自分というもので→
いくらでも変わってしまうぐらい
曖昧なものだと思ってて。
もっと言ってしまえば きっと→
僕の魂が入った中村さんの肉体っていうものは→
たぶん 3番目の人格に
なっちゃうと思うんですよ。
3番目…。
つまり→
中村さんっていう入れ物に入っている
僕っていうものが→
中村さんの体を運転するわけで。
そうすると 3番目の人格に→
きっと なってしまうんじゃないかなと
思っていて。
そのぐらい 何か 人間の自我とか→
目に見えない心みたいなものっていうのは→
曖昧だと思ってるから
たぶん その相反してるものが→
たぶん 自分の中では
つながってるんだと思うんですよ。
すごい面白い話ですね。
何故 これが そなたのもとにある?
盗んだのかと聞いておる!
多くの視聴者の話題をさらった…
またぞろ 謀反でも
たくらんでおるのではございませぬか?
主人公 直虎と
敵対するそぶりを見せながら→
その裏で
誰よりも直虎を思う家老の役を演じ→
ファンの心を わしづかみにした。
俺を信じろ。
信じろ おとわ。
人間が持ついくつもの感情を秘めた演技は→
高橋の真骨頂。
それは 見る人によって全く違う印象を与える。
(刺す音)
ありがとうございます。
お芝居って 僕の中では→
本来 そうでなくちゃいけないとずっと思っていたものです。
もっと すごく曖昧なものを…→
人間の心みたいなものを扱うときって→
それを 一つ 答えですって
言ってしまうことで→
正しいと悪いっていうものを
判断してしまうと…。
10人いたら
10人が分かるものを作るって…。
それもある意味 表現としては
正しいのかもしれないんですけれど→
作品としての。
はい。 ある一方的さを感じるというか→
何か そこに人の…
…を いつもやっていたいんですね。
そのやり方は きっと→
もう 読んで字のごとく 「芝居」です。
「芝」の上に「居る」だけで
何かを語れるようになるのが→
僕は「芝居」だと思ってるんで。
ほう…。
なるほど。 面白い!
それは すごい面白い。
何か あの… 僕らもそうだし
現代アートでもそうなんですけど→
やっぱり…
むしろ 見てる人の参加性っていうか→
そこで 参加してもらって
感情移入してもらって→
どっちとも取れるような状況というか
どう取ってもらっても→
その人の…
見てる人にとっての作品になるような→
そういう表現の在り方って
すごい 今日的だと思いますし。
だから…
ありがたいですそう言っていただけると。
本当 ちょっとした… 例えば→
政次が 処刑される直前に直虎を見て→
微妙に5ミリぐらい こう ちょっと
うなずいたシーンが…→
最後に刺す… 槍で刺す前に。
そのときって 当然 だから瞳孔は絶対 直虎を見据えたまま→
ここだけが こう動くっていう この
本当 このぐらいの微妙なのが…。
あれが 何か