2018/08/12(日) 21:00〜21:50 NHKスペシャル「“駅の子”の闘い〜語り始めた戦争孤児〜」[字]
社頭の対面と呼ばれる行事です。
軍の協力のもと→
遺族の支援などを行う団体が実施しました。
その様子は 新聞やラジオで
大々的に伝えられました。
小学生の時に
社頭の対面に参加し→
靖国の遺児と呼ばれた
男性がいます。
広島市で暮らす…
日中戦争で父を亡くした面家さんは→
昭和18年 靖国神社に招待され
手厚く もてなされました。
靖国神社に招かれるだけでなく→
学校や地域でも特別扱いされたという面家さん。
写真館で撮った家族写真では→
鉄かぶとをかぶりおもちゃの刀を持っています。
早く兵隊となり 父の敵を討ちたい
と考えていました。
しかし 面家さんを待っていたのは
過酷な運命でした。
昭和20年8月の原爆投下。
母は 大やけどを負い→
1か月間苦しんだ末に
亡くなりました。
孤児となった面家さんは
親戚の家に身を寄せますが→
学費が払えなくなり
中学校を退学。
苦労して 家具職人になりました。
戦時中 靖国の遺児と呼ばれた面家さん。
父 そして 母も亡くし
戦後 社会が一変した事に→
裏切られたような気持ちを
持っています。
終戦後の混乱の中 放置された
駅の子たち。
その状況に
大きな変化が起こります。
占領政策を担っていたGHQが
対策を求めたのです。
昭和21年の春
GHQのネフ課長は→
厚生省の幹部らを呼び出し
指示を出しました。
更に 子どもを保護する
専門の施設を→
設置するよう
求めました。
このあと 各地で本格化したのが→
自治体による子どもたちの一斉収容…
しかし 収容先の施設は
数が限られ 食糧も不足。
体罰を行う施設。
子どもを おりに入れる施設もありました。
駅で暮らす方が ましだと→
子どもたちは脱走を繰り返すようになりました。
♪♪~(「東京ブギウギ」)
このころ 世の中は復興へと進み始めていました。
一面 焼け野原だった町に
華やかさが戻ってきました。
豊かさを取り戻していく社会。
しかし 駅の子たちは→
あかに まみれたまま
その日暮らしを続けていました。
子どもたちは
どのように生き延びていたのか。
当時の調査です。
物乞いが50%以上。
窃盗の常習犯は
8%を超えています。
社会は 駅の子たちを→
治安を乱す存在と見なすようになります。
駅の子に対する社会の目は→
無関心から 嫌悪へと変わっていきました。
周囲からの風当たりの強さを
実感していた駅の子がいます。
神戸で空襲に遭い 親を亡くし
上野で路上生活をしていた→
山田清一郎さんです。
山田さんは その後駅で狩り込みに遭い→
施設に送られます。
そこから通い始めた学校では→
孤児だけを集めた部屋が
用意され→
黒板には 心ない いたずら書きが
されていたといいます。
路上生活の中で 片方の目が
ほとんど見えなくなった…
狩り込みから逃れて
全国を放浪し→
昭和22年2月
上野にたどりつきました。
駅の子たちは
孤立を深めていました。
行くわよ。
小倉さんを夜通し介抱してくれたカメちゃんが→
ふさぎ込むようになります。
そして ある日…。
列車に飛び込んだのです。