2018/08/19(日) 21:00〜21:50 NHKスペシャル「届かなかった手紙 時をこえた郵便配達」[字]
思うけど…。
本当 手紙だけが→
手紙だけが 私らの父親です。
♪♪~
調査を続ける軍事郵便保存会。
同じ部隊にいた
複数の兵士からの手紙が→
初めて
まとまって見つかりました。
フィリピンのルソン島で戦った
電信部隊の兵士が書いたもの。
全部で 8通ありました。
全ての手紙が昭和20年の正月を祝う文面でした。
更に アメリカ軍が
接収した事を示すスタンプ。
日付は 全て 1945年9月2日でした。
8通の手紙は 正月から接収されるまでの8か月→
どんな運命を
たどったのでしょうか?
手紙が書かれたと
考えられるのは→
首都 マニラの北の町
サンフェルナンド。
ここに 電信部隊の本部が
置かれていました。
部隊の任務は
島の隅々に電線を張り巡らし→
軍の通信網を維持する事でした。
しかし手紙が書かれた この正月→
およそ20万ものアメリカ軍が
ルソン島に上陸。
電信部隊は
激しい戦いを強いられます。
田中三男さんは
長崎で暮らす家族に→
無事を知らせようと
していました。
終戦当時 12歳でした。
誠さんは 兄の帰りを信じ→
毎日 この船着き場へ
通ったといいます。
やがて
兄の戦死の知らせが届きました。
それから 73年。
手紙を届けました。
遺骨も かえらなかったという
田中さん。
どこで どのように亡くなったのか
家族も分かりません。
詳細が不明の8人の兵士たち。
せめて 手紙がたどった道のりだけでも分からないか。
取材を進めると→
電信部隊の記録を持つ人に出会いました。
電信部隊の一員だった父が→
戦後 生き残った仲間と部隊の記録をまとめていました。
手紙が書かれてから
接収されるまでの8か月の道のり。
その一端が
浮かび上がってきました。
記録によれば 電信部隊は→
アメリカ軍の攻撃から逃れるため→
1月初め 北へ向かいました。
手紙を日本に送る余裕はなく持ったまま移動したと見られます。
途中の小さな農村に→
当時の部隊の様子を知る人がいました。
日本軍は ルソン島での戦いを→
本土防衛のための時間稼ぎと位置づけていました。
山下司令官は
戦闘を一日でも長引かせようと→
永久抗戦を
全軍に命じます。
武器も食糧も補給がない中
持久戦を強いられた兵士たち。
現地の住民の家畜や食糧を
奪うようになっていきます。
それも尽きると
壮絶な飢餓との戦いが始まります。
電信部隊は 追撃を避けるため→
山奥の集落 ハバンガンへ向かいます。
部隊の記録によれば→
板谷雅夫さんが 7月3日ハバンガンで亡くなっています。
この険しい山岳地帯には
軍の司令部も移され→
ルソン島の各地から
日本兵5万人が集まっていました。
それを アメリカ軍など10万人が
包囲したのです。
1月に板谷さんが書いていた
手紙です。
書いた頃の勇ましさとは
打って変わり→
追い詰められた電信部隊。
(爆裂音)
アメリカ軍の
圧倒的な兵力を前に→
もはや
なすすべがありませんでした。
現地で 当時を知る 100歳をこえた
住民と出会いました。
このころの電信部隊の記録。