2018/08/23(木) 01:00〜01:46 NHKスペシャル「船乗りたちの戦争〜海に消えた6万人の命〜」[字][再]
1944年7月白倉さんたち 65人の漁師は→
12隻の漁船で
フィリピンに到着しました。
しかし その直後→
日本の海軍が壊滅的な打撃を受ける事になる→
レイテ沖海戦が起きました。
当時16歳だった竹井重光さんの証言です。
輸送の任務に当たっていた→
12隻の牛深の漁船 全てが次々と沈没。
生き残った漁師たちは レイテ島や
ネグロス島などに ちりぢりに逃れ→
そこで
日本軍の指揮下に入りました。
レイテ島に逃げたある漁師は→
徴兵年齢に満たない16歳だったにもかかわらず→
アメリカ軍と戦うよう
命令されていました。
戦闘の経験も全くない漁師たち。
自決用の手榴弾まで渡されていたといいます。
白倉さんは 真っ先に前線に出て
突撃するよう命じられました。
若者たちは
次々と 倒れていきました。
白倉さんは
ジャングルをさまよううち→
終戦を迎えました。
多くの仲間を失い→
戦後 家族にさえ
戦地の事をほとんど語らず→
黙々と漁に出る生活を
続けたといいます。
生きて帰ってくる事ができたのは
65人中12人。
証言した漁師たちは
このテープに語った日を最後に→
再び 口をつぐんだまま
この世を去りました。
敗色が濃厚となる中→
日本軍は 敵艦に航空機ごと体当たりさせる→
いわゆる 特攻を
本格化させていきます。
軍は 漁師たちにも
決死の任務を強いていました。
あの黒潮部隊です。
1945年になるとアメリカ軍は 本土空襲を本格化。
日本軍には 迎え撃つ戦力は
ほとんど残されていませんでした。
それでも海軍は
黒潮部隊を小笠原諸島沖に送り→
アメリカ軍を監視する危険な任務を
続けさせていたのです。
その任務で命を落とした
漁師の遺族がいます。
宮城県気仙沼の漁師…
亡くなった…
カツオ漁船の船長でした。
任地に向かう駿太郎さんを見送ったのは 9歳の時。
家族に
覚悟したかのような言葉を残し→
船に乗り込んだといいます。
この辺にね 砲がついてんですよ。
駿太郎さんが乗っていた…
地元の漁師仲間6人と共に出港しました。
軍の記録によれば 3日後の夜→
小笠原諸島沖で巨大な船の影を発見。
敵に傍受されるのを覚悟で
無線を発信しました。
「20時17分 敵部隊見ユ」。
夜の闇から姿を現したのは→
戦艦や駆逐艦と見られる
6隻の艦隊。
海晃丸に向けて
攻撃を始めました。
駿太郎さんの最期の打電です。
「我 敵二対シ突撃ヲ決行ス。→
天皇陛下万歳」。
軍上層部が 戦争をやめる判断を下せずにいる間→
輸送船や漁船の被害は
一気に増加。
沈んだ船の半数は
最後の1年に集中していました。
開戦から終戦までの間に
沈没した船は 7,240隻。
亡くなった人は
6万643人に上りました。
輸送船の護衛を担当していた
ある海軍大佐は→
こう回想しています。
「はい じいちゃん 出来たよ」って渡します。
戦争に駆り出され→
漁師の父を亡くした鈴木敬介さんです。
お握りを持って向かうのは
父の姿を最後に見た港。
今も海に眠る父親に
毎朝 祈りをささげています。
おやじよ 私たちを守って下さい。
冥福を祈ります。
鈴木さんは 一度だけ→
父が命を落とした小笠原の海を訪れた事があります。
ふるさとの気仙沼から 900キロ。