2018/09/17(月) 19:30〜20:43 ファミリーヒストリー「デヴィ夫人〜運命の関ヶ原 クーデターでの決断〜」[解][字]


母と弟の悲劇的な死。→
とくに弟の自殺については
死を防ぎ得たのではないか→
私が気負わず

もっと優しくしていたら→
弟を救うことが
できたのではないかと→
悔恨にうちひしがれながら
私はジャカルタに戻った」。
母と弟の死から1か月後の


昭和37年3月。
七保子は
スカルノの第三夫人として→
正式に結婚します。
この時 22歳。
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと
名乗り→
インドネシアで生きていく事を
決めました。
デヴィ夫人とスカルノの結婚は
日本でも 大々的に報じられます。
週刊誌に…
間もなく デヴィ夫人はスカルノから宮殿を与えられます。
その宮殿に 亡き弟の名前をとって
「ヤソオ宮殿」と名付けました。
ヤソオ宮殿でくつろいでいる
2人の様子です。
リビングには デヴィ夫人の
肖像画も飾られています。
当時 親交があり
現在もジャカルタで暮らす…
数少ない日本人の友人だったため
何度も宮殿を訪れました。
現在 ヤソオ宮殿は
軍事博物館として使われています。
(取材者)広いですね。
うん。
(取材者)ポーカーしてる時は
どんな感じなんですか?
東京ドームを上回る

1万6,000坪の広大な敷地に→
38人の使用人に囲まれて
暮らしました。
そしてデヴィ夫人は 外国からの
要人をもてなす役割も→
担うようになります。
スカルノと共に日本の政治家とも会いました。
日本とインドネシアの
友好を深めるパーティー。
デヴィ夫人は 「炭坑節」を披露。
大統領夫人の役割を必死に果たしていきます。
いやあ いかがでしたでしょうか。
ああ そうですか。
うん そうね。
そうですね。
そうですね。
ですから もう…
デヴィ夫人がインドネシアに
渡って6年目の 1965年→
昭和40年9月30日。
状況が一変します。
この日 デヴィ夫人は
スカルノ大統領と→
ヤソオ宮殿で過ごしていました。
翌朝 スカルノを大統領官邸に送り出した直後の事です。
突然 兵士がやって来て
告げました。
「昨夜 反乱が起こりました。
宮殿から離れないで下さい」。
スカルノに不満を持ったとされる

軍人が 6人の将軍を殺害します。
後に 「9月30日事件」と呼ばれる
クーデターです。
幸い反乱は スカルノの部下
スハルト将軍によって→
すぐに鎮圧されました。
しかし 本当の危機はそれからでした。
スハルト将軍が
自ら権力を握ろうと→
スカルノの支持者たちを
逮捕 殺害し始めたのです。
インドネシアで長年
クーデターの研究をしている…
スハルト将軍は 軍部を掌握。
市民からも支持されるようになります。
スカルノの退陣を訴えるデモが
頻繁に行われるようになりました。
デヴィ夫人への
風当たりも強まり→
「日本へ帰れ」という声が
高まります。
怖っ。
軟禁状態が半年ほど続いたある日。
デヴィ夫人は 思い切った行動に
打って出ます。
昭和41年3月20日 デヴィ夫人は
事態を改善しようと→
スハルト将軍を
ある場所へ誘います。
それは ジャカルタの