2018/10/20(土) 19:00〜19:45 地球ドラマチック▽あなたの知らないフィレンツェ〜3Dで再現!ルネサンスの栄華[二][字]


フィレンツェの陰湿な面についても→
調べようとしています。
スコットは 社会歴史学者のデヴィッド・ローゼンタールに→
協力を仰ぎました。
こうした陰湿で熾烈な競争が市民の間でもあったのかを聞くためです。
(デヴィッド・ローゼンタール)
フィレンツェには居酒屋を中心とした独特のカルチャーがありました。
街には血気盛んな男たちの集団が

いくつも あって→
彼らは いつも
居酒屋に たむろしていたんです。
今で言うギャング団ですね。→
そうした男たちは 特定の祝日になるとできるかぎり 華やかな服で着飾ります。
そして 絶えず競い合います。
たとえば自分たちの縄張りの大きさについて→
あるいは 自分の地位についてです。
そうした集団の縄張りは分かりますか?ええ 詳しい記録が残っています。
16世紀初めに 20から30あった集団が
16世紀の末には40から45まで増えました。
ローゼンタールが作成した地図からは→


互いに張り合う男たちの集団によって→
街全体が
分割されていたことが分かります。
この広場は 特に歴史が古く
有力な集団の縄張りでした。
ボスは「赤い町の大君主」ですね?
自分で そう呼んでいました。
すごい名前だな。
「赤い町の大君主」は教会の角にシンボル的な石をいくつか残しました。
それをお見せしましょう。
そこですね。はい。
この街の裏社会の文化を見渡せる
窓のようなものです。
下の石にはイタリア語で
「赤い町」と書かれていて→
壁で囲まれた街に
3つの塔が立っています。
これが集団のシンボル?
そうです。→
上の石は1577年に つけられたもので
「大君主ジョバンニ」と書かれています。
あれは冠ですか?
赤い冠です。
見逃してしまいがちな 街角のシンボル。
それは かつてフィレンツェの基盤にあった→
激烈な競争心を示しているのです。
当時の気質を今に伝えるイベントがあります。
ここは サンタ・クローチェ聖堂。
ただし この日はふだんと かなり 様子が違います。
これは 「カルチョ・ストーリコ」といって

サッカーにラグビー ボクシング→
古いレスリングを併せたような競技です。
今日は準決勝で 街の2つの地区が赤と青に分かれて対戦しています。
ご覧のとおり 極めて荒々しい闘いです。
うわ~! すごい!
私たちが ルネサンス期のフィレンツェで
思い浮かべるのは→
彫刻や建築や絵画などです。
しかし そのような美の世界と暴力的なものとの間には→
ちゃんと結びつきがあります。
どちらも燃えるような情熱あふれるエネルギーから→
生み出されるものだからです。
その情熱が フィレンツェという街を特別なものにしたんです。
(歓声)
(声援と手拍子)
過去には カルチョ・ストーリコのような
激烈な競争が→
有力な家同士の間で
繰り広げられていました。
それぞれの家は 政治権力だけでなく→
芸術や建築についても互いに競い合っていたのです。
フィレンツェがピサなど他の有力な都市と
張り合っていたように→
フィレンツェの内部でも
家同士が競い合っていました。
たとえば
ライバルの家が大きな邸宅を建てたら→
もっと大きな邸宅を
建てなくてはならなかったんです。
彼らは最高の彫刻家を雇おうとしたし→

雇われた彫刻家たちは 誰よりもすばらしいものを作ろうとしました。
そのような果てしない競争が
無限の創造性に つながっていきました。
メディチ家は 新しい霊廟を造るため
ミケランジェロを雇いました。
ローマのシスティーナ礼拝堂の絵画作品や
ダビデ像など→
ルネサンスの傑作を生み出した天才です。
コジモは 1464年に亡くなりましたが→
孫のロレンツォがミケランジェロの才能を
見いだしました。
まだ14歳のミケランジェロを引き取り→
自分の息子たちと一緒に教育を受けさせたのです。
ミケランジェロは
メディチ家の一員になりました。
スコットは
サン・ロレンツォ教会に向かいます。
その脇にある礼拝堂は
ミケランジェロが手がけたものです。
(モニカ・ビエッティ)