やはり自決を迫られていたといいます。
自決を促したとされた
三好康之参謀の音声記録も→
残されていました。
原田少佐の自決について問われこう答えていました。
後に三好参謀は 前言を翻し→
「原田少佐から 拳銃を貸してくれとは言われた。→
自決は あくまで
本人の意思だった」と→
主張しました。
実は ノモンハン事件の直後に→
捕虜に対する厳しい方針が
決められていました。
陸軍大臣が関東軍に宛てた通知。
捕虜を敵前逃亡などの疑いで捜査し→
厳重に懲罰するよう
求めていたのです。
ノモンハン事件を
主導したとされる [外:C9F2FDA15B722253C625AEBE73F4B1D9]少佐。
一時 閑職に身を置いたものの→
事件の2年後には中央の参謀本部に復帰しました。
自らの責任を
どう考えていたのか。
今回 [外:C9F2FDA15B722253C625AEBE73F4B1D9]少佐の次男 毅さんが
取材に応じました。
[外:C9F2FDA15B722253C625AEBE73F4B1D9]少佐が 陸軍時代の
経験をつづった6冊のノート。
今回 毅さんの立ち会いの下
その一部を撮影しました。
ノモンハン事件について
こう つづっていました。
次男 毅さんは→
父親はあくまで 組織の歯車にすぎず→
責任をとるべき人は
ほかにもいるはずだといいます。
陸軍のほかの幹部たちは→
ノモンハン事件の責任をどう考えていたのか。
捕虜の自決に関わった三好参謀。
責任は 関東軍ではなく参謀本部にあると→
主張していました。
一方 関東軍の独断での行動を抑える立場にあった…
関東軍でですね…
2万人が死傷した責任と向き合おうとする声は→
ありませんでした。
ノモンハン事件から2年後。
日本は アメリカなど連合国との
戦争に突入していきます。
敵の能力を軽視し→
十分な見通しもないまま始めた戦争は→
すぐに行き詰まり→
1年ほどで劣勢が決定的になりました。
しかし その現実を直視せず
無謀な作戦が繰り返され→
戦死者は増え続けていきました。
ノモンハン事件で打ち出された捕虜への厳しい方針は→
「生きて虜囚の辱を受けず」と→
明文化されます。
やがて
国民にも→
軍人と
同じ覚悟が→
求められていきます。
多くの民間人が捕虜の道を選ばずに 自決。
一億玉砕の掛け声のもと
310万人もの命が失われました。
(玉音放送)「堪え難きを堪え
忍び難きを忍び→
以て 万世の為に
太平を開かむと欲す」。
ノモンハン事件の責任を問われ
自決させられた…
母親は じゃから…
もう 本当の事を教えてほしいと→
戦後も
軍の関係者に訴え続けました。
関東軍の元参謀たちからの手紙が
井置家に残されていました。
「ノモンハン事件についての
ご質問の件→
小生 全く記憶致しあらず」。
「全く知らない」。
「強要されたのかどうかも
知らない」。
いくさんは
真実を知らされる事なく→
70歳で亡くなりました。
ノモンハンを生き延びた…
100歳を超えた今も
欠かす事なく→
戦友たちの慰霊碑を訪れています。
♪♪~
ノモンハンの塹壕で 無念の死を
遂げた戦友たちの姿が→
今も 焼き付いています。
79年前 モンゴルの草原で散った無数の命。
責任とは何か。
組織とは何か。
ノモンハンに刻まれた塹壕は→
今も 私たちにその問いを発し続けています。
♪♪~