2018/12/02(日) 21:00〜21:50 NHKスペシャル 平成史 第2回「バブル 終わらない清算〜山一証券破綻の深層」[字]
右肩上がりの神話を信頼していた」。
しかし 山一幹部たちの観測は
楽観でしかなかった。
<1990年代は 日本が海外から
金融市場の閉鎖性を批判され→
その開放を
厳しく迫られた時代でもありました。→
その象徴となったのが
1995年 平成7年の→
大和銀行ニューヨーク支店の
巨額損失事件>
<大蔵省が 不正を知りながら 1か月半→
アメリカに情報を開示しなかったことが国際問題にまで発展しました>
<厳しく糾弾されたのは 大蔵省が
日本の金融機関を指導し保護する→
護送船団方式と呼ばれる構造でした。→
それは 公平さや透明さが求められるグローバルスタンダードと→
大きく かい離したものでした>
<90年代 日本銀行の信用機構局課長だった中曽 宏さんです。→
日本は 世界から→
金融危機への 透明で適切な対応を→
強く求められていたといいます>
バブル崩壊と金融自由化という2つの大きなうねりの中で→
絶対潰れないといわれた都市銀行まで
破綻していった平成9年。
当時 山一証券の損失隠しは
公然と うわさされるようになっていた。
破綻の5か月前に開かれた
株主総会の映像が残されていた。
具体的に言えや 具体的に!
具体的に どうすんのやと!
信用不安の広がりから
山一の株価は低迷し→
市場からの資金調達も
難しくなり始めていた。
立て直しのために
社長に就任した野澤正平は→
損失を公表し 事業規模を縮小して
生き残りを図ろうと考えていた。
このころ 隠蔽の手法を考案した
木下公明は→
いまだ実権を握っていた行平前会長に
呼び出されたという。
藤橋 忍は 常務取締役として→
社長の野澤と共に危機を回避する道を模索していた。
しかし 自主廃業を公表することになる
その10日前→
事態は急変していく。
この日から破綻に至るまでの内幕を当事者たちが 初めて語った。
藤橋たちは あらゆる手段を使って
会社の存続を図ろうとしていたが→
万策尽きかけていた。
メインバンクに支援を求めた時の記録が残されていた。
協力には限界があると
受け入れられなかった。
外資系金融機関との接触の記録。
ドイツやスイスなど 世界中の金融機関に提携を持ちかけたが→
これもまた 不調に終わった。
社長 野澤と 藤橋が最後にすがったのが→
護送船団方式で業界を保護してきた
大蔵省だった。
損失隠しの事実を
報告した上で→
生き残りへの支援を
求めた。
長年 大蔵省の担当として
手厚い接待を行うなど→
関係を築いてきた藤橋。
この時の大蔵省の反応も→
前向きなものに感じられたという。
金融危機への対応に苦慮していた大蔵省。
山一側の思惑とは 全く違う方針を
描いていたことが分かった。
証券局 業務課長だった小手川大助。
山一から相談を受けた翌日に→
「救済はしない」と決断していたことを→
初めて明かした。
大蔵省と共に対応に当たった日本銀行。
当初から 破綻を前提とした議論を進めていたことも分かった。
当時 日銀で 山一証券の
破綻処理に当たった増渕 稔。
世界の金融市場を混乱させないことを→
最優先させたという。
グローバルスタンダードへの対応を
迫られる中→
護送船団方式による金融機関の保護は
過去のものになっていた。
日証新聞 号外です。 はい 日証新聞 号外。
そして 11月24日。
何も知らされていなかった
山一の社員 7,500人は→
報道を通じて 自分たちの会社の終わりを
知ることになった。
隠した損失は
2,700億円にまで膨らんでいた。
上意下達の組織文化の中で
危機を見過ごしてきた幹部たち。
証言記録には 破綻後も変わることのない
企業人の姿があった。
「行平 三木氏とも