2019/01/14(月) 16:10〜17:53 ten.【ノゾキミ…壮絶な競争!日本女子フィギュア界で京都の17歳奮闘】[字]


いうことです。
舞鶴海上保安部は、
北朝鮮の木造船の一部と見て、周辺を調査しましたが、今のところ、
ほかの漂着物は見つかっていない
ということです。
阪神・淡路大震災から、
まもなく24年を迎えます。
あの日、
家族が暮らしていた母子寮が全壊。
5歳で母親を失い、その後、
父親と兄とも離れ離れ
になった男性がいます。
家族とは何か。
24年がたとうとする今も模索し
続ける男性の姿を追いました。
>>最初、
ちょっと小さく始めて。>>鈴木佑一さん29歳。
大阪で輸入販売を行う会社を経営
しています。
24年前の阪神・淡路大震災で、
母親を失いました。
>>なんか一緒に手つないで幼稚
園とか歩いて行ってた思い出とか
は、すごい思い出しますね。
自分が住んでた風景とかを思い出すことが多いですね、やっぱり。
>>佑一さんが当時暮らしていた
のは、
神戸市兵庫区にあった神戸母子寮。
経済的に苦しい人や、
夫の暴力などに悩む母と子を、



戦前から支える、駆け込み寺でした。
しかし、
阪神大震災で激しい揺れに襲われ、
木造2階建ての母子寮は全壊。
合わせて5人が犠牲となりました。
>>僕、
1階に住んでたんで。
1階が完全に2階に押しつぶされ
て、
目開けて真っ暗なんですよ。
全く動けなくて。
もうそんな時間が何時間もたって、
誰かが、
ここに人がおるって言って、
僕を助け出してくれたんです、
そのがれきの下から。
お母さんのところ、
全然違うところにいたんですよ。
ぱって見たら、
布団にくるまってる状態で、もう、
死んでるって分かりましたね、
見た瞬間。
もう亡くなってました。>>これは、
震災の2日前に行われた、
母子寮のカラオケ大会の写真。
母親の富代さんは歌うことが大好
きでした。
母と兄と3人で、
楽しく過ごしていた日々は、
震災によって一瞬にして崩れ去り

ました。
その後、
別居していた父親は兄だけを引き取ることになり、
佑一さんは兵庫区の山中にある、
児童養護施設に入りました。
>>ここが、
僕が生活していた男の子の部屋です。
結構みんな、
中高生になったら遅くまで起きてて、
なんかあんまり遅すぎたら怒られ
てみたいな、
いつまで起きとんねんみたいなの
で、とかね、けど、楽しかったで
すね、やっぱり、みんないるんで。
>>施設では、
さまざまな事情を抱えた子どもた
ちが支え合って、自立を目指しま
す。
震災で親を亡くしたのは、佑一さ
んだけでしたが、
自然と生活に溶け込むことができました。
およそ15年間過ごした、
家のような場所です。
施設を出た今でも、
月に1回は訪れ、
後輩たちの進路相談に乗るなどし
ています。
>>会社どうですか?このごろは。
>>いやまあ、
いろいろありますけど、なんとか。

>>金子理事長は、
24年前から佑一さんを見守って
きました。
>>お母さんをそういう状況で亡
くしたっていうのは、
すごく心に大きな傷っていうか、
ベースになるものがなくなってるわけですから、
人を求める気持ちが強かったんで、
それをずっと職員が受け止めてきた。
それが、