それでも今大会確かな手応えを感じたという。
番組の一部に字幕のついていない
部分があります。ご了承ください
6434人が犠牲になった阪神大
震災からきょうで24年。
被災地では朝から鎮魂の祈りに包
まれました。
「黙祷~」
震災24年を迎えた被災地。
亡くなった家族や友人に思いを馳
せながら
多くの人が祈りを捧げました。
24年の月日がもたらしたのは、
被災者や遺族の高齢化と、
震災を知らない世代の増加でした。
犠牲者を悼む「早朝追悼のつどい
」で、
毎年、演奏してきた松平晃さん。
実行委員の高齢化で、
「つどい」が今年で終わることに
なり、
松平さんの演奏もきょうが最後と
なりました。
「傷ついた神戸を~♪」
追悼行事はピーク時の半分まで減ったといいます。
震災の記憶の風化をどうやってく
いとめていくかが、
重い課題となっています。
阪神淡路大震災の犠牲者の名前が刻まれたモニュメント。
誰が、どんな理由で訪れるのか、
1年間取材しました。
「いっせーのーで!」
色鮮やかな灯りに照らされた、神戸ルミナリエの会場。
その片隅で、静かにたたずむモニ
ュメントがあります。
地下空間の壁に刻まれた震災犠牲
者の名前。
この場所を訪れる人たちを1年間
みつめました。
神戸・三宮の中心部にある「東遊
園地」。
ここに阪神淡路大震災の犠牲者5
012人の名前が刻まれた、
「慰霊と復興のモニュメント」が
あります。
鹿児島から旅行でやってきた68
歳の女性。
偶然モニュメントの存在を知り、
大切な人の名前を確かめに来ました。
女性が20歳のころ勤めていた神
戸の会社の寮で、
お世話になったといいます。
半世紀ぶりに蘇った思い出。
懐かしい人に再会できました。
猛暑に見舞われた去年夏。
名前を探している夫婦がいました。
会社の同期だった男性と、
地震のあと全く連絡が取れなくな
ったといいます。
行方がわからない男性は、
多くの住宅が焼けた神戸市長田区に住んでいました。
名前を探すのは、今回で2度目。
どこかで男性が生きていると信じ、
モニュメントを後にしました。
阪神淡路大震災を後世に伝えるため、
2000年、全国から集まった寄
付で完成したモニュメント。
さまざまな人が、あの日に思いを
馳せてきました。
ところが、おととし、
心ない言葉で落書きされる事件が発覚。
震災の記憶が風化してしまう現実
を、
突きつけられました。
去年の末、新たに刻まれた母の名を
長女と一緒に見つめる男性がいま
した。
兵庫県尼崎市に住む、藤原雄大さ
ん。
数年前に神戸市外の犠牲者も追加
できることを知り、
「母の生きていた証を残したい」
と申し込みました。
当時25歳だった藤原さん。
芦屋市のアパートの1階で母と同居していました。
震災の前日、友人の結婚式から帰
宅したのは
深夜でした。
いつもにぎやかで、弱いところを見せなかった
母、ヨリ子さん。
56歳で突然、この世を去りました。
藤原さんは、最後の会話をずっと
後悔してきました。
藤原さんの長女・麦さんは、
小学2年生になりました。
ヨリ子さんのことを
少しずつ知ってほしいと思っています。
いつ失ってしまうかわからない日
常。
その大切さをヨリ子さんと一緒に