2019/01/23(水) 15:50〜17:53 ten.【美しい港町「広島・鞆の浦」を大調査!若一調査隊】[字]


係性を見ながら進んでいくと、
そういうこともあって。
ここがそういう潮待ちのうえでも、
地乗りのうえでも、
一番、条件がよかった。
>>潮の満ち引きの差は最大で4
メートルにも及んだそうです。
そこで考えられたのが2つ目の特
徴、雁木です。
船着き場を階段状にして、船に板


を渡すことで、
潮の満ち引きにかかわらず、
いつでも積み荷の揚げ降ろしができるよう、工夫されているんです。
>>非常に合理的な、よく考えら
れた、それが江戸時代に作られて、
そのまま残ってるわけです。
>>なるほど。
>>この雁木の凝ってるところ、
数少ないですけど、見事に残って
る。
>>さらに台風などの強風による大波から船を守るために、
国内最大級といわれる石の波止も、
江戸時代に作られました。また石垣が残る船の出入りや安全
を確認した、高台の船番所や、大
型船にも対応した、
船の修理を行うたでば跡も。
近世港町の文化が、今も息づく町
並みは、日本遺産に登録されてい
ます。
続いて調査隊は、
鞆港のすぐそばにあるいろは丸展示館へ。
実はここ、鞆の浦は坂本龍馬と深
い関わりがある場所なんです。
>>話によると、
どうやら無料で坂本龍馬になれると。
>>無料で坂本龍馬になれる?
>>コスプレ的に。
>>うわー。
ことしもやりますか?
>>一発目ね。


>>2019年一発目のコスプレ。
>>着替えが済んだでしょうか。
>>おまん、
ばんじみには分からん。
おまん、日本の夜明けは近いぜよ

>>気持ちいい?
>>はい。
では、龍馬になりきって館内を回
ります。
展示館の名前にもなっているいろ
は丸とは、
坂本龍馬率いる貿易結社、海援隊が乗っていた船のこと。
1867年4月、深夜に瀬戸内海
で、
龍馬の乗るいろは丸と、
紀州藩の軍艦、明光丸の衝突事故が起きました。
いろは丸は、
紀州藩によってえい航される途中に沈没。
そのとき、命は助かった龍馬たち
が上陸したのが、
最寄りの港町、鞆の浦だったので
す。
ここで龍馬は損害賠償交渉を行い
ました。
>>ルールを守ってないのは、
紀州藩のほうだということで、損害ばいしょうをはらえと、しかも
坂本龍馬は、
沈んだわれわれのいろは丸には、鉄砲や重火器や、金塊とかね、
非常に金目なものを積んでたんで、

その分も賠償せえということで。
>>交渉は鞆の浦で4日間行われ
ましたが、決裂。
その後、龍馬は国際法に基づいて、
多額の賠償金を取ることに成功しますが、
僅か7か月後、京都で暗殺され、
海援隊も解散してしまいました。
地元グループなどが30年ほど前
から、
沈没したいろは丸の調査を行う中
で、意外な事実が発覚。
なんと、
龍馬が主張した鉄砲などの積み荷は、今のところ見つかっていない
のです。
>>実際は、
そんなものはたぶん、
積んでなかったんだろうと。
いかにも龍馬らしいと。
>>策士ですね。
やっぱり。
>>策士ですね。
>>続いての魅力は、日本一と称
された瀬戸内の絶景。
調査隊は、
港のそばに建つお寺へ。>>まあ、
鞆の浦、
鞆港が果たした役割の一つが、
外国との関係の大きな基点になっ
たということですね。
>>そうなんですか。