2019/02/06(水) 15:50〜17:53 ten.【若一調査隊!大阪・豊能町の“多尊石仏”の秘密に迫る】[字]


>>確かに。
川尻地区をあとにした調査隊は、
豊能町の中央に位置するよの地区へ。
次は、両面に刻まれた多尊石仏。
いやー、若一さん、開放感ありま
すね、この辺り。
>>気持ちいいですね、この辺り
は田んぼが広々としてね。
>>春は稲の緑。
秋は稲の黄色。


>>黄色、まあまあ。
冬枯れした雰囲気もなんかいいで
しょ。
ほらほら、見えてきましたでしょ
う、
石の固まり。
あれが多尊石仏です。
>>おー。
田んぼの中に、
ぽつんとたたずむ多尊石仏。
長年、
太陽に照らされ、
風雨にさらされたこの石仏は、
豊野町にある7基の多尊石仏の中
で最も風化しています。
そしてこの石仏には、
思いがけない不思議な特徴が。
>>失礼します。
裏にもね、ちょっと分かりにくい
けど、
同じように石仏が、
多尊石仏が掘られてるんです。
石の両面に彫られてる。片面だけでは思いが足りなくて、
あるいは片面に掘り切れないたく
さんの人の思いが、こちらにも表
現されているということかもしれ
ませんね。
>>豊能町には、ほかにも4体の
多尊石仏が存在。
切畑西野多尊石仏は、


高さ127センチ、
幅60センチ、
素朴な仏様が刻まれています。
社の中に祭られているのは、切畑
中の西多尊石仏。
以前は石仏と分からず、川に架か

る橋の一部として、使用されてい
ました。
観音菩薩と阿弥陀如来は大きく欠損しています。
そしてこちらは切畑大円下所多尊
石仏。
多尊磨崖物。
動かない巨大な岩に彫られた仏様
を、まがい仏といいます。
では一体なぜ多尊石仏は造られたのでしょうか。
豊能町でガイドをされているこに
しさんに伺います。
>>いわゆる戦国時代というのは、
非常にもう皆さん方、生活に苦し
んでると。そういう中から、せめ
て亡くなったあとくらいは極楽浄
土に行きたいと、これをいわゆる
逆修信仰といいます。
>>逆襲信仰ね。
>>逆修信仰とは、生前にあらか
じめ、死後・来世の冥福を祈るこ
と。
下の段に刻まれた僧形は、死後の
幸せを祈った人たちが、自分の姿
を彫ったといわれています。

そして、豊能町の7つの多尊石仏
には、ある共通点が。
実は、すべてが室町時代末期の1
564年から1580年に造られ
ています。
なぜこの16年の間にだけ造られ
たのでしょうか。そこには、
逆修信仰に加えて、
この地域特有の2つの背景があるんです。
>>永禄7年から、
天正8年の16年間に造られているんです。
それはやっぱり、
信長のいわゆる石山合戦ってありますね。
>>豊能町の多尊石仏が造られた
時期は、
織田信長が頭角を現し、現在の大
阪城にあった石山本願寺を攻めて
いた時期。
本願寺に味方していた豊能町の民衆は信長に対抗。
信者結集の証しとして、多尊石仏
を刻んだとの説もあります。
>>信長によって自分たちもやら
れるかも分からないというような
危機感を持っていたかも分かりま
せんね。
>>ありますよね。
>>そしてもう一つの背景が。
豊野町は、
キリシタン大名、
高山右近聖誕の地として知られて