2019/02/06(水) 15:50〜17:53 ten.【若一調査隊!大阪・豊能町の“多尊石仏”の秘密に迫る】[字]


いて、
現在の茨木氏からは隠れキリシタ
ンの墓や、日本にキリスト教を伝
えた、
フランシスコ・ザビエルの肖像画が見つかっています。
また高槻市は、
城下町に右近が教会を建設。このように当時、豊能、
茨木、
高槻近辺のエリアは、
キリスト教の影響を受けていまし
た。
>>永禄7年の年には、53名の
方がね、
集団で洗礼を受けているんです。
その年にこれが出来たということで。
>>つまり身近にキリスト教の圧
迫感を感じるようになった民衆が、
あくまでも仏教徒としての思いの
強さから、
多尊石仏を造った可能性もあるん
です。
そして、最後に目指すのは、豊能
町で最大の多尊石仏。
調査隊はその実態に迫るため、山
の中へ。
>>ちょっと体があったまってき
ましたね。
山登りで。
>>少しだけあったまりました。>>ありました、ありました。
>>あー。


>>これが、
たぬきやぶ。
その先が多尊石仏ですね。彫りもおおらかに、
分かりやすく彫ってますよね。
>>ちょっと規模が今までのと違うでしょ。
>>高さ156センチ、
幅4メートルという巨大な岩に彫られた多尊磨崖仏。
一体なぜこのような山の中に造ら
れたんでしょうか。
>>われわれ入ってきたから、
相当山の中にあるような感じがしますけれども、昔はこの前の道が
これ、街道だったわけですよね。
江戸時代には。
>>池田から亀岡、
京都のほうへ抜ける道だったんです。
>>江戸時代の方は、
ここを歩いて旅をしていたから、道沿いに皆さん、
これを見ていったということにな

るんですね。
>>そうですね。
>>1564年から1580年までのたった16年間にだけ造られ
た豊能町の多尊石仏。
それ以降に造られることはありませんでした。
そこには大きな理由が。
>>16年ぐらいで造られなくなったということは、
今から振り返れば、
いいことだったんかもしれませんね。
>>織田信長の政治も治まってき
たというところで、世の中が安定
してきた。

>>織田信長の天下統一により、
戦国時代の終わりが近づき、
民衆にも平安が訪れつつありました。
そのため逆修信仰の証し、多尊石
仏も造られなくなったのです。
>>乱世の時代とか、戦国時代と
か言いますけど、その現実を生き
た方々、庶民にとっては、ほんま
に厳しい時代だったんでしょうね。
>>そうですね。
せんなんのじだいにしょみんのこころのよりどころとなった多尊石
仏。
皆さんも豊野町の山里を歩きなが
ら、その歴史に触れてみては。
>>菊間さん、多分、多尊石仏、
初めてご覧になったと思いますが、
いかがでしたか。
>>でも散策してたら、すーっと
通り過ぎてしまうので、
すごく勉強になりました。
>>豊能町は、
冒頭でご紹介したように、
いろんなね、
一体だけの石仏を中心にいろんな
石仏があるんですが、
特にこれが珍しいというものなん
ですね。
増田さん、どうでしたですか。
>>多尊石仏っていうものが、
全国的にいろんな所にあるわけで

はないんですか。
>>これほど明確な多尊石仏って
いうのは、あんまりないですね。
もうここにこの地域に集中してい
るということですね。
>>もう歴史ロマンを感じますね。
>>そうですね。
ぜひ一度出かけてみてください。
>>きょうの若一調査隊でした。
>>ありがとうございました。