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2019/03/09(土) 19:00〜19:45 地球ドラマチック「モナリザ 微笑が秘めた真実」[二][字]


そして突然 予期せぬ場所から新たな証拠が見つかりました。
2005年ごろ ドイツの

ハイデルベルク大学の図書館で→
研究者が この文書を発見しました。
一体 何かというと 古代ローマの作家キケロが著した書物の複製本です。
ダ・ヴィンチのアトリエを訪ねた→
アゴスティーノ・ヴェスプッチという人物が持っていました。
ところどころ ヴェスプッチの書き込みが
残されています。
重要なのは この部分です。
キケロが 古代ギリシャの芸術家アペレスについて記した箇所です。
本の持ち主のヴェスプッチは
余白に感想を書いています。
その内容が「モナリザ」の研究に
大きな一石を投じました。 読んでみます。
「なるほど。 アペレスは ダ・ヴィンチが→
リザ・デル・ジョコンドの肖像画を描いた時と同じことをしたのか」。
日付もあります。 「1503年10月」。
このメモは ヴェスプッチがダ・ヴィンチのアトリエで→
肖像画を見た直後に記したと


考えられます。
これは非常に重要です。
なぜなら ヴァザーリの記述が正しいことが証明されるからです。
つまり ダ・ヴィンチは間違いなく→
リザ・デル・ジョコンドの肖像画を描いていたということです。
ダ・ヴィンチと同じ頃に フィレンツェで
暮らしていたヴェスプッチが→
1503年に リザの肖像画を見たことは
間違いないようです。
しかし 別の疑問が湧いてきます。
当時 身分の高い貴族の依頼でも→
肖像画の制作を断っていたという
ダ・ヴィンチが→
なぜ 無名の女性の絵を
描いたのでしょうか?
リザに関する記録が フィレンツェの
公文書館に眠っていました。
調査の結果 リザと夫のフランチェスコが
住んでいた場所が明らかになりました。
(パッランティ)これから リザが結婚して
住んでいた場所に ご案内します。
リザが夫のフランチェスコと出会ったあと
夫婦で暮らしていた家です。
あそこの建物です。
他にも重要な点があります。
レオナルド・ダ・ヴィンチの父親が
リザたちの向かいに住んでいたのです。
待って下さい。 リザたちが住んでいた
部屋の向かいが…。
ええ。

ダ・ヴィンチの父親の家?そうです。
ダ・ヴィンチも父親に会うために
時々 来ていたでしょうね。
ダ・ヴィンチの家族は リザの家の
ほぼ真向かいに住んでいたんです。
すごい!
更に重要なことに フランチェスコはダ・ヴィンチの父親の顧客でした。
ダ・ヴィンチの父親は
公証人の仕事をしていたんです。
商人だったフランチェスコとは 仕事上の
つながりがあったというわけですね?
はい。
全く知られていない事実だ。
ダ・ヴィンチとリザの結びつきが
はっきりと分かりました。
2人は家が近いだけでなく 家族が
仕事でも つながっていたのです。
更に当時の警察の記録によれば→
リザの夫・フランチェスコは少々いわくつきの人物で→
「ふるまいが尊大で強引」と
記されています。
ダ・ヴィンチが リザの肖像画を描いた
理由は もしかすると→
フランチェスコの
強引な依頼のせいかもしれません。
サン・ロレンツォ教会には
別の記録が残っていました。
数年前に発見された
リザの死に関する記録です。
これは すごい。

「リザ・ドンナ・フ・ディ・フランチェスコ・デル・ジョコンド。→
フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻
リザ。→
1542年7月15日 死亡」。
まさに紛れもない事実です。
人間の死亡記録ほど
確かな情報があるでしょうか。
リザは実在したのです。
そして もう一つ 非常に短くて重要な一文が つづられています。
「ドゥルサ・トゥット・イル・カピト」。
わずか4語です。
これは「リザのなきがらのあとに
サン・ロレンツォ教会全体が続いた」。
つまり とても盛大な葬儀だった
ということでしょう。
葬儀が行われた 1542年7月の時点で→
リザは フィレンツェの街で非常に重要な人物だったと考えられます。
恐らく当時
フィレンツェに住んでいた誰もが→
リザ・デル・ジョコンドが

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