2020/11/24(火) 12:00〜12:45 先人たちの底力 知恵泉▽家康をつくった三方ヶ原の戦い 失敗こそ成功への指針[解][字][再]
あ~ そうですか。
さあ 今日はね 徳川家康の知恵を
読み解いていこうと思うんですけれども→
加来さん
この よく見る家康ではなくて→
今回は こちら この「顰像」。
はい。 我々が学生の時は…
最悪の状況を形に残すっていうことは
ありえないといわれたんですね。
最近の論文では 一世代あとじゃないか
というふうにも→
いわれてきたんですけども まあ 私は
やはり 家康らしいなという気がしますね。
彼がやっても おかしくないなと。
そのぐらい…
さあ 今日はね その失敗をプラスに変えた
家康の知恵を見ていくわけなんですが→
用意したメニュー こちらでございます。
ほう。高野豆腐って失敗なんですか?
そうなんですよ。
へえ~ 知らなかった。こちらなんですけどね。
諸説あるんですけれども
高野山のね 宿坊の料理担当の僧侶が→
豆腐を外で凍らせてしまって… で
それを調理して食べたら おいしい→
ということで生まれたのが
高野豆腐ということで。なるほど。
ある意味 失敗から生まれた
「高野豆腐DEカツ!」と。
いいじゃないですか おいしそうだし。
本当ですか?はい おいしそう。
ちょっと メニューで褒められるの
久々だなと思って。
ちょっと甘かったかな。
では 失敗から学んだ家康 最初の知恵を見てまいりましょうか。
今の愛知県
三河の松平家に生まれた家康は→
幼い頃から過酷な運命に翻弄されます。
三河は 西は織田家 東は今川家という→
強大な勢力の間に挟まれた弱小国。
当時 松平家は今川家の傘下にあり→
家康は 8歳から12年もの間
今川家の人質となります。
しかし とらわれの身でありながら
家康は→
いずれ 故郷 三河を統治したい
という思いを募らせていたのです。
そんな中 家康に大きな転機が訪れます。
永禄3年 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたのです。
家康は これを機に三河に戻り 独立。
更に 今川の領土だった遠江→
今の静岡県の西部地方にまで
勢力を広げます。
元亀元年 29歳の時には
堅固な浜松城を築いて 本拠としました。
そして
今川を倒した織田信長と同盟を結び→
信長の天下取りに
積極的に協力していきます。
しかし 多くの戦国武将たちが
領地拡大をもくろむ中→
三河の隣国
甲斐の武田信玄が動き始めます。
その時 信玄は
天下統一を目指していた節があり→
将軍 足利義昭と連携
信長を討ち滅ぼそうとしていました。
そのためには 同盟者の家康を
まず たたき潰さねばなりません。
家康と戦わずに西に進めば→
信長との間で挟み撃ちにされる危険性があったからです。
元亀3年10月 信玄は出陣。
およそ3万の軍勢で家康の領地へ侵攻を始めます。
武田信玄は その人望と統率力によって
多くの合戦を勝ち抜いてきた名将。
風林火山を旗印とした信玄軍は
戦国最強と恐れられていました。
この時 信玄は52歳の大ベテラン。
一方 家康は経験値の低い 31歳の若手。
兵力 経験ともに 差は歴然でした。
信玄は 二手に分かれ数日の間に 三河と遠江の城を落とし→
浜松城を拠点とする
家康の逃げ道を遮断します。
ここで家康は 不可思議な行動をとります。
なんと…
しかも その数…
通常 偵察のためだけに それほどの数の兵を動かすことはありません。
一体 なぜ家康は3千の兵を率いて
偵察に出たのでしょうか。
更に家康は こんな甘い考えを
持っていたのではないでしょうか。
「信玄は
三河 遠江の地理に不案内なはず。→
たとえ攻撃されても すぐに逃げれば
とても追いつけないであろう」。
ところが 家康の動きは
信玄に筒抜けでした。
信玄の息子 武田勝頼の軍勢に
三箇野台で見つかり 攻撃を受けます。
家康軍は浜松城へ向かって