2020/11/24(火) 12:00〜12:45 先人たちの底力 知恵泉▽家康をつくった三方ヶ原の戦い 失敗こそ成功への指針[解][字][再]


いちもくさんに撤退しますが→
信玄軍は 猛スピードで追撃。
すぐに一言坂で追いつかれ 両軍は衝突。
家康は やっとの思いで

浜松城に逃げ帰りました。
自国の領土にもかかわらず
すぐに追いつかれた家康。
その後も…
信玄は たとえ家康が若く経験値が低い武将であっても→
手を緩めず


自ら抱える忍者や偵察隊を配置し→
くまなく家康の領地をリサーチしたと
いわれています。
特に地形については 地図や絵図を描き
詳細を明らかにしました。
武田信玄の軍法書「甲陽軍鑑」には
次のようにあります。
信玄軍が一言坂で 逃げる家康の偵察軍に
追いつくことができたのは→
信玄の綿密なリサーチが功を奏し→
事前に逃げ道を把握できていたからとも考えられます。
元亀3年12月22日。
信玄軍がいよいよ 浜松城へと進撃を始めます。
この時 籠城戦を決め込んでいた家康は
城の中で待ち構えていました。
しかし 急な知らせが入ります。
信玄軍が7キロ手前で進路を変え→
浜松城を通り過ぎ
西へ進んだというのです。
家康が いぶかしがっていると
信玄軍は三方ヶ原台地に上り→
北西へ更に進んでいきました。
ここで家康は 城を出て信玄軍を追いかけます。
信玄が向かう先には
急峻で細い坂道しかないことを→
家康は知っていました。
ここを信玄軍が行くならば上から攻撃し→
あわよくば勝てるかもしれないと
考えたのです。
しかし 三方ヶ原を上ったところで

家康軍が見たのは…。
無数にはためく 風林火山の旗印。
信玄軍は 坂を下りる直前で身を翻し→
僅かな時間で陣を組み
家康軍を待ち構えていたのです。
全ては 信玄の策略でした。
こちらが三方ヶ原絵図になります。
江戸時代に描かれた貴重な絵図が
浜松市に残っています。
三方原台地をですね…
この場所まで家康を招き寄せたこともリサーチによる信玄の策略でした。
三方ヶ原台地の東側には
切り立った崖があります。
西側から家康軍を攻めれば
退陣するのは難しく→
追い詰めることができると
信玄は考えたのです。
綿密なリサーチによって 信玄は三方原を
決戦の場としたのだと考えられます。
家康は 地形を把握していた信玄の策略に
まんまと引っ掛かってしまったのです。
三方ヶ原台地で向き合った
信玄軍と家康軍。
勝負は 合戦前に
既に決まっていたようなものでした。
家康の戦いぶりは
次のようだったと記録されています。
「歯を食いしばり
時に 泡を吹き→
兵を激励し

退陣をしようとしても→
返り討ちを何度も受けて
疲れきってしまった」。
たった2時間の戦いで
甚大な被害を受けた家康は→
浜松城に ほうほうの体で
逃げ帰ったのです。
信玄のリサーチ力に
完膚なきまでに敗れた家康。
しかし この失敗が
後の家康を作っていったのです。
こんなこともあったんだっていうことが
知りませんでしたし→
信玄という人の 若いから家康を侮るとか
そういうことは一切ないんですね。
だからこそ あれだけの強さを
誇ったんだなって思いますし…
森さん ラグビーのお話を
伺いたいんですけれども→
ラグビーの何かこう
昔の青春ドラマのイメージだと→
何か 精神論で語られるようなところも
あるのかなっていう気が→
したんですけれども その辺り
昔と今と こう比べて…。
もう全く変わったですね。
あっ そうですか。
僕らの時の高校時代なんていうのは…
やっぱり そうなんですね。ええ。 「とにかく走れ!」とか→
「走り過ぎて死んだやつはいない」とか