2020/12/13(日) 06:10〜06:45 目撃!にっぽん 選「ふるさとは まだ遠く〜“中国残留孤児”が生きた75年〜」[字]


新型コロナウイルスの感染拡大で利用を控える人が増えたのです。
[TEL]

そのかわり 昼夜問わず相談の電話が舞い込みます。
いつにも増して 戦争によるトラウマが→
よみがえってきていたのです。
この日 三上さんは
ある男性を訪ねました。
10年近く介護を続けてきた妻を→
2月に亡くしたばかりです。
孤独のあまり
戦争の記憶に苦しんでいないか。
勇吉さんもまた 中国残留孤児として
激動の人生を歩んできました。
80年 どうやって
生きてこられたんだろうって。
80年。
4歳の時 開拓団として→
家族と共に中国へ渡った勇吉さん。
戦後の混乱の中で両親が相次いで亡くなり→
兄によって


中国人に売られたといいます。
中国人の養父母に 王占林と名付けられ→
中国人のように育てられました。
38歳の時に帰国し
30年ぶりに家族と再会。
終戦の翌年に帰国していた
兄 竜太郎さんは→
結婚し
家庭を築いていました。
尋ねても
当時の話をしたがりませんでした。
竜太郎さんは 14年前に亡くなり→
その答えを最後まで聞くことはできませんでした。
7月 心境の変化があったと聞き
勇吉さんを再び訪ねると→
一冊の本を見せてくれました。
兄 竜太郎さんの死後譲り受けた手記です。
日本語が理解できずに
しまいこんでいましたが→
1人暮らしになったことで
改めて 読み直したというのです。
そこには 勇吉さんが思いも寄らなかった
兄の苦悩がつづられていました。
旧ソ連軍から逃れ→
避難民のための収容所へ身を寄せた一家。
両親が相次いで亡くなり→
妹 弟ときょうだい3人が残された時→
竜太郎さんは
まだ16歳でした。
「一家を背負う 責任の重みが→

父親にかわって→
私の肩に重くのしかかってくるのが→
肌で感じられた」。
きょうだいと別れたあと 竜太郎さんは→
中国で過酷な労働を強いられていたことも分かりました。
75年たって 初めて知った兄の気持ち。
勇吉さんに ある思いが芽生えます。
中国残留孤児として生きてきた
自分の人生も→
記録に残そうと
今 手記を書き始めています。
♪♪~
生き別れた両親を恨んでると話していた…
買い物のため
繁華街を訪れていました。
帰りのバスを待つ富子さん。
しきりに 周囲を行き交う人たちを見回し始めました。
富子さんは しばらくの間
そこに とどまり続けていました。
ねっ これ。
よいしょ。
(アナウンサー)「全国戦没者追悼式の模様を
中継で お伝えしています」。
(時報)
ふるさとを探し求めた 富子さんの75年。
お母さん お父さん 娘 見てるよ。
お母さんは どこ どこいるの?
ああ…。
娘 心配よ。 どこいるの?
(アナウンサー)「終戦から75年」。

♪♪~
勇吉さんの手記が
書き上がりそうだと聞いて→
三上さんは家を訪ねました。
わっ。おじゃまします。
暑いね。 暑い。
えっ? 暑い。
兄によって
中国人に売り渡された勇吉さん。
その決断が 自分の命をつないでくれたと
書かれていました。
中国残留孤児の人たちが集まる
一笑苑。
戦争によって 肉親を奪われ
苦難の人生を強いられた人たち。
はい。 やった!
ありがとう。はい。
ありがとう。
祖国 日本で→
今も 心から安らげる