2020/12/20(日) 05:15〜05:45 桂文珍の演芸図鑑 選「六平直政 三遊亭わん丈 神田伯山」[字]


おばあさんで…。
「ご出家様 あたしも直して進ぜます」。
じじいだけじゃなく ばばあまで現われた。
「どう直す?」。
「ご出家様は 『伝え聞く 鼓ヶ滝に来て見れば』と お詠みになりましたが→
我らは 下から上を見ることを
『打ち見る』と申します。→
鼓は 打つ道具によって→

『来て見れば』ではなく→
『打 ち 見 れ ば』。
この方が→
調べが高う~…→
ございますよ」。
「確かに そのとおりだ。→
『打ち見れば』の方が調べが高い。恐らく 何の某…」。
「いやいや 我らは岡目八目で」。
西行今 自分の歌を振り返ってみてあれば→
上の句をじいさんに直され
中の句をばあさんに直され→
もう自分のところは


下の句しか残っていない。
どうにかして この下の句を
死守せねばと思っておりますところ…。
もう この講談を聴いている人は
お分かりでございましょう。
まだ出ていない人物がおりまして…。
孫娘が ずいっと前へ。
「ご出家様 あたしが直して進ぜます」。
「出たな 孫娘。 お前は どこを直す?」。
「私は下の句を」。
「やっぱり下の句か。 どう直す?」。
「ご出家様は
『沢辺』とおっしゃりましたが→
鼓は皮を扱うもの。→
同じ意味であるなれば『沢辺』ではなく→
『川辺に咲きし たんぽぽの花』。
この方が 調べが高う~…→
ございますよ」。
「確かに そのとおりだ」。
今言われた歌を 全て直してみてあれば→
「音に聞く 鼓ヶ滝を打ち見れば川辺に咲きし たんぽぽの花」。
これこそ まことに名歌である。
思いました時に スッと一陣の風。
これが 西行の襟っ先へ。
っと西行 眼前を見てあれば→
今までありました山間の茅屋は
どこぞへと消え→
今 目の前にあるのは松の根方。
先ほどの3人もどこかへ姿を消しております。
してみれば

今の3人は和歌三神に違いない。
かりそめの姿に身を変えて
自分に意見をしてくれたのか。
ああ 二度と天狗慢心いたすまじと→
西行は心を入れ替えたんだそうでございます。
「いざ心 花を訪ぬと言いなして
吉野の奥へ深く入りなん」。
「月の色や 心に清く染めましや
都を出でぬ わが身なりせば」。
「ねがわくば はなのもとにて春しなん
そのきさらぎの 望月のころ」。
西行旅行脚という
小三治師匠に捧げる一席でございました。
(拍手)
ず~っと 舞台だってそれが この映像の方へいきますよね。
映像は 要するに 舞台ですから
縁がないじゃないですか。
演出家も知らない 監督も知らない
本書きも知らない。
知ってんのは 唐さん…
唐十郎だけですから。
で 唐さんが NHKの
三枝健起ディレクター 演出家に→
本を何本か書いてたんですよ。
それの 「匂いガラス」とか→
「雨月の使者」とか
そういうのに出たり→
まあ 映画もそうですね。 だから
深作監督も 伊丹監督も 北野監督も→
「シコふんじゃった。」の周防監督も→

こっちからアプローチできないじゃないですか。
だからね 偶然なんですよ。
伊丹監督なんか 「あげまん」なんかはね→
最初 もう
エキストラみたいな役ですよ。
最後に わあ~っと出てきて
津川さんの頭を押さえる→
ガードマンみたいな。
「こら 待て~!」ぐらいしか せりふない。
でも そっから なぜか
全作 呼んで頂きました。
それ やっぱり ハマったんですよ。
この人は こういう役には欠かせないっていう人が→
やっぱり 要りますからね。
新藤監督も…。
あっ 新藤先生には もう…。
先生の晩年の作 ほとんどしのぶちゃんとか豊川と呼んでもらって→
すばらしい体験を
させて頂きました。
豊川悦司さん。