認知症医療の第一人者…
2年前 自ら認知症になったことを
公表しました。
先生 こんにちは。
日本で初めて 認知症の早期診断を可能にした長谷川さん。
私たちに こう言いました。
違うよ。
(まり)違うよ。
(まり)違う…。(笑い声)
(取材者)そうなんですか?
うん。
死のうかと思ったんだって。
(取材者)えっ?
日々 進行していく認知症。
え~っ。(拍手)
予想外の行動をとる長谷川さんに
家族は 葛藤を抱え続けていました。
(笑い声)
それでも 失われるものばかりではありませんでした。
認知症を生きていく上で
大切なものは 何か。
長谷川さんは 見つけようとしていました。
♪♪~(歌声)
誰もが認知症になりうる時代。
認知症になった第一人者が自ら発するメッセージです。
♪♪~
取材を始めたのは 2018年の夏。
(チャイム)
お暑いところ…。こんにちは。 はじめまして。
長谷川さんは
妻の瑞子さんと2人で暮らしています。
お邪魔します。 お邪魔します。
(取材者)ピアノがあるんですね 先生ね。そう。
認知症と診断されたのは
この取材の1年前。
始まりは 曜日の感覚が
あやふやになったことでした。
普通のカレンダーのほかに→
日めくりカレンダーが欠かせなくなりました。
(取材者)2つあるのは
どうしてなんですか?何?
(取材者)2つ カレンダーがあるのは
何でなんですか?
よいしょ。
長谷川さんの認知症は…
調子がいい時は
自宅の書斎で 一人研究を続けています。
(取材者)すごい。
300冊ぐらいかなあ。
(取材者)戦場ですか。
戦場。
(取材者)おお~。 ここで何を…
どんな戦いをするんですか?
だから…
長谷川さんの医師としての歩みは日本の認知症医療の歴史そのものです。
戦後間もない頃 精神科医となり
40代で認知症を専門にした長谷川さん。
認知症は 当時 痴呆と呼ばれ
差別や偏見の対象となっていました。
具体的な診断基準すらなかった時代。
自ら開発したのが記憶力などをテストする…
日本で初めて
認知症の早期診断を可能にしました。
認知症の人の尊厳を守るため→
病名を 痴呆から「認知症」へ変更することを提唱。
86歳まで診療を続けました。
どうも ありがとう。はい 失礼します。
認知症医療の第一線に立ち続けて半世紀。
この日 訪れたのは名誉教授を務める大学でした。
(まり)うちから持ってきてない…。
認知症になった今も各地で講演活動を行っています。
それから 確かさが はっきりしない。
長谷川さんには 認知症への理解を深める原点となった出来事があります。
五線紙に思いをつづっていたのが…
長谷川さんが主治医を務めていました。
50代でアルツハイマー病を発症。
健さんは 亡くなるまで→
その胸の内を明かすことは
ありませんでした。
唯一 残していたのが
この五線紙に書かれた言葉でした。
「僕には メロディーがない
和音がない 響鳴がない→
帰って来てくれ
僕の心よ 全ての思ひの源よ→
再び 帰って来てくれ→
あの美しい心の高鳴りはもう永遠に与えられないのだろうか」。
長谷川さんは 健さんが亡くなったあと→
妻の裕子さんから五線紙のことを打ち明けられました。
認知症の人の心に寄り添い
診療を続けてきた長谷川さん。
しかし 自身が認知症と分かった時
想像以上の不安に襲われたといいます。
認知症になって初めて分かる
当事者の胸の内。
長谷川さんは それを忘れないために
日記をつけています。
「僕の認知症も確かなものと自覚した。→
『3時ごろ こちらに来る』という伝言をすっかり忘れ→
そのことも自覚しないという点で→