2020/12/29(火) 02:00〜03:15 NHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治〜戦後日本の自画像〜」[字][再]


密約は無きものにされる。
結局 大野は 総裁選への立候補を
断念せざるをえなかった。
たまたま。
大野は 副総裁として党への影響力を残すことで→
この後 戦後外交に一役買うことになる。

池田総理の誕生とともに経済成長を軌道に乗せた 1960年代の日本。
大きな外交課題は
アジア諸国との戦後処理問題だった。
その中でも最大の課題だったのが
韓国との国交正常化だった。
日本は 1910年に韓国を併合。
以来 36年間にわたって植民地支配を行った。
戦時中は 内鮮一体の名のもと→
多くの朝鮮半島出身者が戦場に駆り出された。
補償の在り方などを巡って→
10年以上にわたって難航していた日韓交渉。
1962年 渡辺は 交渉内容を巡って
スクープを放つ。
そのスクープは
外務大臣の大平正芳と→
韓国軍事政権
ナンバーツーだった 金鍾泌の→
極秘交渉についてだった。
このスクープは 渡辺が 度重なる接触で→
信頼関係を築いていた金鍾泌から
直接 情報を得たものだった。
渡辺は この金鍾泌と ある人物を
引き合わせたことをきっかけに→
取材者としてだけでなく


当事者としても交渉に関与していく。
渡辺が金に引き合わせたのは
密約を反故にされたものの→
副総裁として
党内に強い影響力を残していた→
大野伴睦。
大野は 自民党内に多く存在した韓国との交渉消極派の筆頭だった。
どうぞよろしくお願いします。
当時 渡辺と共に外務省記者クラブに籍を置いていた→
毎日新聞の西山太吉。
韓国訪問を決めた大野のスケジュールや同行者を→
差配していたのは 渡辺だったという。
外務省の正式ルートに加え自民党副総裁を基軸とした→
韓国側との もう1つの交渉ルートが
生まれていった。
渡辺の動きは 韓国中央情報部に
マークされるほどのものだった。
軍隊での過酷な経験から
政治家と戦争との距離感を測ることで→
記者の道を歩んできた渡辺。
国の方向性をも左右する政策に→
当事者として関与するようになっていく。
そして 大平と金の合意から3年。
条約文書を巡る 外交当局同士の
激しいやり取りを経て→
ついに 日韓基本条約が結ばれた。
♪♪~(「世界の国からこんにちは」)
高度成長期を経て
GNPが世界第2位となり→
経済大国と称されるようになった

1970年代の日本。
戦後生まれが現役世代となり→
戦争の記憶が少しずつ薄れ始めた時代だった。
渡辺は 取材現場を離れ
政治部長などを務めていたが→
歴代の政権とは
変わらず昵懇な関係を築いていた。
その中でも 盟友関係を結んだのが→
去年 101歳で亡くなった中曽根康弘元総理大臣だった。
2人は 戦争の記憶が まだ鮮明な
1956年 昭和31年に出会った。
去年から公開が始まった中曽根の資料。
その中にGHQのマッカーサーの占領政策を→
批判する建白書があった。
♪♪「自由と民主平和をば」
当時 中曽根は
憲法改正を強硬に主張するなど→
自民党の最右派として 名をはせていた。
当初は 中曽根の思想信条に好感を持っていなかったという渡辺だが→
生真面目な政治姿勢に
徐々に惹かれていった。
そして 1950年代から
総理大臣の座を見据えて→
行動を共にするようになった。
その中曽根の総理就任に決定的な役割を果たしたのが→
自民党の最大派閥を率い→
闇将軍 キングメーカーと呼ばれていた→
田中角栄だった。
同い年で当選同期ながら出自や経歴の全く異なる田中と中曽根。
しかし 2人には共通点があった。

共に 戦場の最前線で戦争の現実に直面していたのである。
田中角栄の 知られざる戦場での姿を
記録した写真が→
戦友の自宅で見つかった。
1939年 陸軍二等兵として満州に渡った→
当時20歳だった田中。
その直後に ノモンハン事件が起き→
出撃した同僚の古参兵の多くが
命を落とした。
その2年後 病気で除隊となった田中は→