2020/12/13(日) 06:10〜06:45 目撃!にっぽん 選「ふるさとは まだ遠く〜“中国残留孤児”が生きた75年〜」[字]

♪♪~
(アナウンサー)「終戦から75年。→
全国戦没者追悼式の模様を中継で お伝えしています」。
ああ…。
80歳を越えて なお母を捜し求める女性。
2人を引き裂いたのは 戦争でした。
終戦前後の混乱の中 親と離れ離れになり中国に取り残された…
祖国 日本の地を踏んだのは→
戦争から30年ほどが過ぎてからでした。
(泣き声)
高齢となった孤児たちが集まる介護施設がありました。
今 よみがえるのは
異国の地で経験した つらい出来事。
親の顔も 名前すらも知らない女性。
今も問い続けています。
幸せになれると信じて帰った日本。
孤児たちの生きた75年を見つめました。
東京 板橋区にある介護施設 一笑苑です。
♪♪~(中国語の歌声)
3年前 中国残留孤児の人たちを
支えようと設立されました。
利用者の9割が
孤児と その家族です。
♪♪~(中国語の歌声)
(中国語)
(笑い声と拍手)
健康のための運動は 中国伝統の踊り。
お昼御飯は みんなが食べ慣れた
中国東北部の家庭料理です。
施設を立ち上げた 残留孤児3世の…


祖母の政恵さんは→
60歳を過ぎて帰国。
晩年は 友人も亡くなり→
一人 寂しそうに
していました。
祖母のような孤独な老後を
送ってほしくない。
それが
施設を作った理由でした。
今 施設では
ある問題が持ち上がっています。
高齢化に伴い 過去の記憶に
苦しめられる人が増えているのです。
傷を 少しでも癒やしてほしいと
気持ちを分かち合う会が開かれました。
1年半ほど前から この施設に通う…
生き別れた両親がいまだ見つかっていない富子さん。
思わぬ言葉が飛び出しました。
両親を恨んでいる。
そこには この75年間を生き抜いてきた
壮絶な人生がありました。
富子さんが帰国したのは
38年前 44歳の時でした。
家族を捜すため テレビや新聞で
詳しい経歴が繰り返し伝えられました。
「肉親捜しのため 来日した→
中国残留日本人孤児の皆さんを→
ご紹介します」。
「昭和20年8月当時の推定年齢 7歳。→
私は 撫順市内で迷子になり


中国人に拾われ→
その人から 次々と人手に渡された」。
家族と離れ離れになった いきさつや→
親の顔 自分の名前すらも
覚えていない富子さん。
分かっているのは
中国で孤児になったということだけです。
5つの家に転々と売られ
学校にも行かせてもらえず→
家事や家畜の世話をしながら
暮らしていました。
18歳で中国人の男性と結婚。
貧しい中4人の子供を育てました。
日本には
自分を受け入れてくれる家族がいる。
そう信じての帰国でした。
それから およそ40年。
富子さんは 今
年金と国が支給する支援金などで→
生活しています。
67円。
家族の手がかりを探し続けましたが→
身元が分からないまま日本国籍を取得。
中国名から 一字 取って 「富子」。
名字は お世話になった人からもらい稲葉富子になりました。
ことあるごとに
「日本人」と口にする富子さん。
日本人であることを
自ら確認しようとしているようでした。
この日 ふだんは離れて暮らす

末の息子と家族が家を訪れていました。
日本で大学を卒業し
不自由なく暮らす息子を前にすると→
つい かつてのつらい経験を
こぼしてしまいます。
うん 今は幸せよね。
幸せ。
中国残留孤児の人たちが集まる
一笑苑です。
6月 その様子は一変していました。