2018/05/14(月) 00:55〜01:50 NNNドキュメント「南京事件�U」[解][字]

<今は 防衛相が置かれているこの一角に→
かつて
陸軍省参謀本部がありました>
<敗戦が決まった
1945年の8月>
<この建物の裏手から
3日間にわたって→
煙が立ち上ったといいます>
<それは 軍の公式記録を焼却する煙でした>
<焼却を命じた
 陸軍の書類です>
<日付は
 8月15日>
<戦争責任を問われかねない

記録を→
連合軍が来る前に葬ることを→
政府が決定したのです>
<ところが…>
<終戦から およそ50年が経過した 1996年>
<防衛省の敷地内から
大量の灰や→
焦げた紙の束が発見されました>
<それは 焼却されたはずの→
日本軍の記録だったのです>
<燃え残っていた陸軍の記録です>
<現在は
1枚ずつ台紙に貼られ…>
<…と呼ばれ

 保存されています>
<その現物を

見ることができました>

清水) 昭和20年の8月に→
燃やされ
 埋められていたものの一部が出て来たということで→
初めて
 今回 見せていただいてるんですけれども。

「大日本帝国参謀本部」→
…と書かれた印紙>
<これは 日中戦争の秘密書類>
<燃え残りの中の1枚に
私達は注目しました>

清水)ここにですね 命令書があって→

敵国首都 南京を攻略すべし」と→
書かれてます

<中国へ派遣された日本軍が→
当時の首都 南京へと攻め込んだ→
南京攻略戦>
<その記録の一部が焼け残りの中にあった>
<つまり
南京戦の記録のほとんどが→
焼却されていたことが
今回 明らかになったのです>
<古い革張りの日記帳>
<これは 福島県から南京戦に参加した ある上等兵が→
戦場で書きつづった

陣中日記です>
<燃やされた記録に
代わるかのように→
日記が訴えることとは…>
<「捕虜せし 支那兵の一部→
五千名を→
揚子江の沿岸に連れ出し…」>

「機関銃を以て射殺す」>

「年寄りも居れば→
子供もいる
」>

「一人残らず殺す」>

「刀を借りて→
首をも切ってみた
」>
<それは
 「南京虐殺」「南京事件」などと呼ばれる→
中国人への残虐行為を記した
一次史料だったのです>
<同様の加害行為を認めた
兵士達の日記は→
コピーを含め
30冊以上が確認されています>
<そして
 生前に記録されていた→
兵士達の肉声>

<公式記録の焼却によって封印されていた→
これらの事実>
<しかし 南京事件は→
一部で否定されているのです>
<現職の国会議員の中からも→
異論を唱える声が>
<一方 被害を訴えている中国側は…>
<30万人が殺害されたと
主張しています>
<81年前
南京で何が起きたのか…>
<私達は
 兵士達の日記や証言について→
4年間にわたり
 国の内外で→
取材を続けて来ました>
<次第に明らかになって来たのは→
1937年
12月16日 17日の→
2日間にわたった
捕虜殺害の詳細でした>
<あの夜
揚子江の岸部で何があったのか>
<公式記録が失われた中→
一次史料と 兵士達の証言から→
事実の重みを検証します>
<福島県出身の…>
<地元から南京戦に参加した
兵士達の→
陣中日記を集めて来ました>

(小野さん)…を中心に 聞き取りと→
[外:C01D2BAFCE469DA1ABBB612FDB16C1E3]兵士の聞き取りと史料を集めて

一応
 聞いたのは→
ちょこっとでも聞いた人も含めて
200人。
約200人

生存してる人は
もう今はいません。
もう
 みんな100歳以上ですからね。
<私達は
 陣中日記に記されている内容について→
検証を重ねて来ました>
<そして 戦後70年の節目だった2015年に→

南京事件』を放送しました>
(ナレーション)
多くの部隊が手柄を競った→
南京攻略戦

(ナレーション) 
上海などに上陸した…。
(ナレーション) 
当初の作戦任務は→
居住していた日本人の
保護でした。
しかし…


(ナレーション) 
12月日本軍は南京に迫って行きます。
(ナレーション)
中心部は 高い城壁で囲まれた巨大な要塞です。
(ナレーション)
日本軍が採った作戦は→
いくつもの部隊による
完全包囲作戦でした。
上等兵が所属していた
「山砲兵第19聯隊」は→

歩兵第65聯隊」などと隊を組んで→
揚子江沿いを
さかのぼって行きました。
この包囲作戦で
中国兵や多くの民間人が→
揚子江を渡れずに
取り残されました。

「12月16日」>

「捕虜せし 支那兵の一部五千名を→
揚子江の沿岸に連れ出し→
機関銃を以て→
射殺す
」>
<放送後の反響は大きく→
視聴者からは 「知らなかった」「良かった」などの→
メールや電話が寄せられました>

<一方で ネット上には→
こんな書き込みも
目立ち始めます>
<南京事件については→
事件そのものを否定する声が絶えないのです>
<また
 事件に対して異論を唱える人達の中には…>
<現職国会議員までも
含まれています>
<しかし
 日本政府の南京事件に対する公式見解は→

非戦闘員の殺害や→
略奪行為等があったことは
否定できない」→
…などと
 しているのです>
<戦後になるまで
日本人のほとんどは→
南京事件を知りませんでした>
<当時新聞などが触れてはならない→
理由があったからです>
<「新聞紙法」>
<戦時中の新聞や雑誌は
検閲が行われており→
軍にとって都合の悪い記事は
許可されなかったのです>
<河原で燃やされる
映画フィルム>
<終戦を迎え

 戦時中の写真や→
映画ニュースの
フィルムなどの多くも→
焼却されました>
<しかし この新聞社は 当時→
写真を
 ひそかに保存していたといいます>
この辺りですかね


清水) これは… 捕虜ですかね。

「不許可」というハンコが押された写真>
<後ろ手に縛られた
中国人捕虜の姿が映っています>
<そして
 捕虜を銃剣で突き刺す日本兵>

「南門前の激戦の跡」→
…と記された写真は→
南京陥落時に撮影されたものでした>
<残虐な写真や
軍の機密に触れるような写真は→
掲載不許可とされ→
事実は国民に伝えられなかったのです>
<残されていた
南京戦に参加した兵士達の→
陣中日記>
<これらの一次史料を集めて来た小野賢二さんは→
200人以上の兵士達から→

直接に聞き取りも行って来ました>
<大量のビデオテープや
音声録音>
[外:1ACF61D411002097CD9E60E60A835A8F]
(男性) 重機関銃で撃つ時にね→

うわぁ~」っていう声がしたんだ。
<これら多くの証言を
調査することで→
2日間にわたった
捕虜銃殺の詳細や その現場が→
今回
 新たに判明して来たのです>

清水) 日本兵が証言している魚雷営って→
地図では
 「水魚雷営」って書いてあるんだけども。
この施設がね→
海軍学校とか海軍倉庫といったと思うみたいで。
この場所を何とか…

ここに
 たどり着いてね裏付けをしたいと。
<明らかになって来た
捕虜銃殺の現場>
<私達は
新たに判明して来た情報を→
現地南京で
検証してみることにしました>
<従軍していた

 新聞社のカメラマンが撮影した写真です>
<後ろに見える建物が
捕虜収容所です>
<これを報じた新聞によれば→
捕虜の数は 1万4777人>
<日本兵も食料に事欠く中→
捕虜達には ほとんど食事は与えられなかったといいます>
<一度目の銃殺があったとされる
12月16日>
<捕虜達は
 揚子江の近くの海軍倉庫まで連行されました>
<現場近くには→
幕府山という山がありました>
<捕虜を連行した
兵士によると…>
<海軍倉庫には
上元門と呼ばれる集落の→
交差点を
左に曲がって行ったといいます>

男性の声) そして 中には…。
 
外国語 
<海軍倉庫の銃殺現場に→
たどり着くことはできないのか?>
<船をチャーターし
揚子江上からの接近を試みます>
<海軍倉庫のあった場所は→
現在は巨大な造船所になっていて→
近づくことができませんでした>

<陸地からも はっきりとした道は見当たりません>
<当時の地図と
衛星写真を照らし合わせます>

清水) 今 我々は この辺にいますけども 水魚雷営…。
<ルートを探し続けると→
揚子江に沿った細い踏み跡を見つけました>
今…
 揚子江沿いに→
海軍倉庫のあった場所に
近づいています。
あと50mぐらいの所です


清水)ここが上元門の集落になります。
そして
 海軍倉庫がここです。
GPS上で見ると
ここが上元門の交差点。
そして
 今 我々は この赤いマークのとこに来ました。
ここがですね
当時の海軍倉庫です。
<兵士達の証言を元に→
81年前の捕虜銃殺の状況を→
CGで再現しました>
<午前中 日本兵達は→
倉庫の壁に
穴を開け始めたといいます>


男性の声) そこを…。
<等間隔に並べられた
複数の機関銃>
<外部からは銃が見えないように
設置されました>
<そして
 本部と連絡を取るための電話も引かれました>
<揚子江上には
海軍の軍艦が停泊していました>
<やがて
 周囲が暗くなると…>
<後ろ手に縛られた捕虜達が→
揚子江側を向いて座らされました>
<そして
 将校の笛の音が…>

号笛)

機銃音)
<銃撃が終わると
銃剣や刀を持った兵士達が→
捕虜の中へと
向かって行きました>
<その後
 多数の遺体の処理が始まりました>
<翌日も
海軍倉庫での捕虜の銃殺は→
続いたといいます>
(機銃音)
<同じ17日

海軍倉庫の下流の河川敷でも→
捕虜の銃殺は
行われていたといいます>
<65聯隊の伍長は→
当時の様子をスケッチに残していました>
<17日の銃殺現場には→
「幕府山の麓を回るように向かった」と→
証言しています>
<また 別の兵士も…>
<交差点を右折し→
幕府山を右手に見て進みます>
<今は埋め立てられた
揚子江の岸部>
<兵士達の日記や証言によると→
17日の銃殺現場はこの辺りと考えられます>
<現場となったのは
 幕府山下の→
大きな河原>
(男性の声) とにかく…。
<そして
 有刺鉄線の外側には→
いくつもの機関銃が
セットされます>
<カムフラージュのため
機関銃の上には→
柳の木の枝やシートなどが
かぶせられていました>
<やがて→
数多くの捕虜が連行されて来ました>
<そして…>

<機関銃の相撃ちを防ぐために→
ともされた炎と炎の間を狙って→
引き金を引いたといいます>
<捕虜銃殺の状況を
スケッチしていた伍長は→
こんな様子を目撃していました>
<「この時の 撃たれまいと人から人へと登り集まるさま→
即ち人柱は→
丈余になっては崩れ→
なっては崩れした
」>
<また
 別の兵士も…>

機銃音)
<そして
 前の日と同じように→
銃剣や刀を持った兵士が
突撃しました>
<この時
 日本兵からも死亡者が出たといいます>
<機関銃を撃った後
生き残っていた捕虜に→
刀を奪われて
逆に切られたといいます>

男性) 別に…。
<しかし
この捕虜の銃殺について→


あれは虐殺ではなかった」とする声が→
上がっているのです>
<福島県の歩兵第65聯隊による→
中国人捕虜の銃殺>
<一部では「あれは虐殺ではなかった」→
…とする声も上がっています>
<その根拠とは…>
<民間人の服で
変装した兵士を→

便衣兵」と呼びます>

「武器を隠し持っていたから射殺された」>
<そんな指摘があるのです>
<銃殺された捕虜達は→
武器を隠し持った
便衣兵だったのでしょうか?>
<伍長が書いたスケッチには→
捕虜を収容した時の様子も残されていました>
<日本兵は
 武装解除した捕虜の武器を積み上げて→
燃やしたといいます>
<その後 数日間は捕虜として監禁した後に→
銃殺したというのです>
<抵抗していない捕虜の殺害は→
国際法違反に問われます>
<65聯隊による銃殺を→

虐殺ではない」と否定するもう一つの理由として→


自衛発砲」という主張もあります>
<これは一体
何なのでしょうか?>
<12月17日
捕虜を解放する目的で→
揚子江岸に連行>
<船に乗せて逃がそうとした時→
対岸から銃声が聞こえたことで→
捕虜達が暴動を起こしたため→
やむを得ず…>
<…した というものです>
<軍の公式記録もない中で
語られている→
自衛発砲説>
<その根拠とは何なのでしょうか?>
<私達は
ルーツをたどることにしました>
<ネットを中心に広がる
自衛発砲説は→
そのほとんどが
 近年発行された本からの引用でした>
<それらの情報をさかのぼると→
1970年から1980年代に出版された本からの→
引用なのです>
<さらに年代をさかのぼって行くと→
1964年に出された→
1冊の本に たどり着きます>

『郷土部隊戦記』>
<それは

 南京へ派兵されたあの65聯隊の地元→
福島県で出版された本でした>
<南京虐殺と部隊との関係を否定する内容>
<主張しているのは
 65聯隊の→
両角という聯隊長でした>
<自衛発砲の原点を求めて→
私達は
福島県会津若松へ向かいます>
<南京で起こったという
捕虜の虐殺>
<一方
 それを否定する自衛発砲説>
<私達は
 その原点を求めて→
65聯隊の地元
福島県で調査を始めました>
<かつて
65聯隊が置かれていた場所>
<今は
門柱だけが残っていました>

清水) うわ!

清水)「65聯隊」って書いてあるな。
<昭和初期に建てられた→
記念碑も残されていました>
<福島県郡山市にある
陸上自衛隊の資料室です>
<保存されていたのは…>

<…の写真>
<南京戦当時の
65聯隊の組織図です>
<そこには
 自衛発砲を主張する→
両角聯隊長の名前が>
<『郷土部隊戦記』の基になった新聞連載記事がありました>
<本が出る
 さらに2年前→
1962年の
福島県の地元紙です>
<これが
 初めて→
自衛発砲を世に伝えた記事です>
<12月17日に捕虜を解放しようとして→

思わぬ事態が発生」>

「たちまち大混乱が起こった」>

「いくら制止しても聞かず→
恐怖を感じた兵は→
発砲するほかはない」>

「部隊でも将校一人→
兵六人が捕虜の群れに→
ひきずり込まれて死亡した」→
…と書かれていました>
<取材に応じていたのはやはり…>
<つまり

 部隊の責任者が→
自衛のための発砲だったと
主張しているのです>
<そして
 連載記事の題字も→
本人が書いていました>
<両角聯隊長はこの新聞記事が出た翌年の→
1963年に亡くなっています>
<これは 両角聯隊長が残したというメモです>
<12月17日には→
「捕虜の開放準備 同夜開放」→
…と書かれています>
<しかし その前の日 16日の→
海軍倉庫での出来事については→
全く触れられていません>
<現場にいた兵士達によれば
16日には 既に→
数千人規模の銃殺が
行われているはずです>
<その翌日になって→
なぜ 捕虜を解放しようとしたというのでしょうか?>
<聯隊長のメモによれば→
捕虜を解放したはずの17日には→
聯隊長自身は
南京入城式に参加していました>
<つまり
 自衛発砲を主張する両角聯隊長 本人は→
自分では
 銃殺現場は見ていなかったのです>
<銃殺現場にいた責任者は

65聯隊の→
田山という大隊長でした>
<その田山大隊長には→
護衛のために
上等兵がついていました>
<田山大隊長と現場にいた→
その上等兵の日記です>
<そこには
こう書き残されていたのです>

「12月16日」>

「二千五百名→
殺す
」>
<そして
 両角聯隊長が→
自衛のための発砲だったと
主張している→
17日の日記には…>
<「今日は 南京入城なり」>

「俺等は今日も→
捕虜の始末だ
」>

「一万五千」>
<田山大隊長を知る兵士は
こんな証言もしていました>
<幹部達は

 捕虜の銃殺について→
箝口令を敷いたといいます>
<戦犯になるのを恐れていたというのです>
<現場にいた兵士達は…>
(男性) 何にもなくてですよ。
<新聞記事で世に伝わった
自衛発砲>
<それは
 戦後になって→
幹部達が責任回避のために
作り上げた話だというのです>
<私達は
 56年前に→
この自衛発砲の新聞記事を
書いた記者を→
探すことにしました>
<南京の捕虜銃殺との関係を否定する 新聞記事>
<56年前に
その新聞記事を書いた記者に→
会うことができました>
<阿部輝郎さん>
<両角聯隊長を直接取材し→
初めて 自衛発砲を世に伝えた記者です>
この
『郷土部隊戦記』というのは→
これは
 阿部さんがお書きになったものですか?

阿部さん) はい そうです。
<記事が出た翌年に

両角聯隊長は亡くなりました>
<つまり
 聯隊長から自衛発砲の話を直接聞いて 記事にした→
唯一の記者
ということになります>
そういうふうな意味での
自衛であって…。
<[外:C01D2BAFCE469DA1ABBB612FDB16C1E3]記者は
聯隊長から聞いた話を→
何度か繰り返しました>
<両角[外:1D2EAFA6BE36DC6152CB1917CD2AC486]が書いたとされるメモについて訪ねると…>
<メモは
 戦後に書かれたもの>
<つまり
 当時の一次史料ではありませんでした>
<両角聯隊長から
直接 話を聞いて→
自衛発砲を最初に伝えた
唯一の記者も→
あの状況は
虐殺と言われても仕方がないと→
考えていたのです>
<自衛発砲説>
<その根拠を
さかのぼって行けば→
軍の責任者達が
戦後に言いだした弁明でした>
<そして
 戦犯になることを恐れた幹部達の弁明を→
一部の本やネットが→

引き写していたのです>

「虐殺などなかった」とする歴史修正の声>
<一方
 30万人もの人間が→
虐殺されたと主張している
 中国>
<当事者達からは
 話を聞くことは難しくなりました>
<だからこそ
重要な意味を持つはずだった→
公式記録>
<それを焼却した この国 日本>
<今は
 もう残り少ない記録と証言から→
一歩ずつ
 その輪郭に迫るしかないのです>
<余命3か月のわが子>
<家族が最期を迎える場所に選んだのは→
お家のような診療所でした>
(女性) 怖くないよ。
大丈夫だよ

2018/05/14(月) 00:55〜01:50
読売テレビ1
NNNドキュメント「南京事件�U」[解][字]

かつて日本が行った日中戦争や太平洋戦争。日本は、戦争の公式記録を焼却してしまった。消し去られた事実の重みの検証を試みるとともに現代に警鐘を鳴らす。

詳細情報
出演者
【語り】
湯浅真由美
番組内容
かつて日本が行った日中戦争や太平洋戦争。日本は戦争の公式記録を焼却してしまったのだ。真相は残された兵士のインタビューや一次資料をひとつひとつ分析するしかない。そして得られた情報をもとに再現CGで、これまで知られる事のなかった戦場の全貌に迫る。消し去られた事実の重みの検証を試みるとともに現代に警鐘を鳴らす。


ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント