2018/07/30(月) 22:25〜23:10 プロフェッショナル 仕事の流儀「農業経営者・多田克彦」[解][字]


どうも どうも どうも。ありがとうございます。
2日前に完成したばかりの

抹茶プリンを 早速 売り込む。
多田の熱意に 商社の社長は→
現地での販売イベントの提案も受け入れた。
ありがとうございます。 社長から
そういう お言葉を頂いて…。
素材の生産から商品の製造
そして 販路まで独自に切り開く。
これが 多田の考える
自立した農家の在り方だ。
多田さんが
仲間と共に作る商品は→
日本だけでなく
今や 海外にまで運ばれていく。
4年前には 台湾→
そして 去年からはアメリカへの販路も切り開いた。
しかし ここまでの道のりは
苦難の連続だった。
多田さんは 昭和30年


遠野の兼業農家に生まれた。
東京の大学を卒業したあと→
遠野に戻り 市の職員となった。
転機は 32歳の時に訪れた。
柳田国男のシンポジウムが遠野で開かれ→
初めて 「遠野物語」を手にした。
多田さんは有志と勉強会を立ち上げた。
民俗学の父として知られる
柳田国男は→
明治政府の農業政策を
つかさどる官僚でもあった。
柳田は 各地の農村を歩き
貧困にあえぐ農民の姿を見た。
そして
農業の在り方に警鐘を鳴らした。
「政府の保護に
すがることを→
ただ一つの
逃げ路とする風を止めて→
独立して国の中堅産業と
なるだけの計画を立てるのが→
自覚である」。
多田さんは 強く共感した。
その1年後だった。
市役所を辞め多田自然農場を立ち上げた。
牛肉の自由化 反対!
しかし当時 日本の農業は岐路に立たされていた。
牛肉の輸入自由化が
始まろうとする中→
多くの農家が国に保護を求めた。

多田さんは この逆風に→
あえて 農業だけをなりわいに
立ち向かった。
「一日の生産本数4,500本。→
この牛乳の商標は『多田克彦』生産者本人の名前です」。
当時の多田さんを追った
映像がある。
妻の正子さんは→
農業への熱い思いをいつも聞かされていた。
その後 牛肉の輸入自由化が
本格的に始まると→
牛の価格が下落。
借金が膨らんだ。
更に 牛乳の生産調整が
追い打ちをかけた。
「牛乳の5%を捨てろ」という
農協からの指令。
従わずに脱退した。
販路を失った多田さんは 牛乳を自ら東京に売り込みにいった。
ここは
もっと攻めの姿勢が必要だ。
牛乳やヨーグルトの製造を
依頼していた会社に→
一層の規模拡大を指示した。
売り上げは 20億円にまでなった。
しかし 農場 立ち上げから
14年目の事だった。
牛乳などの製造を
委託していた会社が→
コンサルタントに だまされ

倒産してしまったのだ。
再スタートにあたり
多田さんは決意した。
自社で工房を立ち上げ 自らの手で
こだわりの商品を作っていこう。
その仕事を担ってくれる仲間を
しっかりと育てよう。
隠れてない? 誰も。
≪大丈夫です。 かぶってません。→
はい いきます。 はい チーズ!
工房 立ち上げからの仲間で→
今 スイーツ作りを
任されている…
当初 里香さんは
右も左も分からないまま→
多田さんに命じられ
洋菓子店で修業した。
多田さんは
従業員たちと昼食を共にし→
農場でとれたものを味わう。