「堪え難きを堪え 忍び難きを…」。
昭和20年8月 戦争が終わった日本。
しかし ここから 本当の闘いが始まった子どもたちがいました。
親を失い 路上で生きる事になった
戦争孤児です。
15歳の時 空襲で親を失った女性。
寝泊まりしたのは上野駅の地下道でした。
駅に集まった
行き場のない子どもたち。
駅の子とも呼ばれました。
女性は幼い2人のきょうだいと共に→
飢え死にする恐怖におびえる
絶望の日々を送りました。
その経験は 惨めな記憶として
女性を苦しめてきました。
駅の子の姿は
全国で目撃されました。
しかし 彼らが その体験を
語る事は ほとんどなく→
詳しい実態は分かっていません。
終戦直後の混乱の中→
子どもたちに
何が起きていたのか。
私たちは 3年間にわたって
駅の子を探し 証言を集めました。
その多くが
80歳を超えた駅の子たち。
経験を伝えるのは 今しかないと
重い口を開きました。
戦争が終わったあとも→
生きるための過酷な闘いを強いられた 駅の子たち。
その空白の歴史に迫ります。
アジアや太平洋で膨大な犠牲者を出した戦争。
軍人 民間人 合わせて
310万もの人が亡くなりました。
戦争末期には
日本各地が空襲を受け→
大きな被害が出ました。
その結果 多くの子どもたちが→
突然 親を失い 孤児となりました。
ここで 73年前→
路上生活をしていたという女性と
待ち合わせをしました。
金子さんは 終戦直前に
山形で空襲に遭い→
親を亡くしました。
15歳の時でした。
東京で仕事を探そうと→
幼い弟と妹を連れ上野にやって来ました。
しかし 一面 焼け野原。
住む場所もなく 身を寄せたのが上野駅の地下道でした。
涙を流し始めた 金子さん。
ある つらい記憶を思い出していました。
終戦直後の上野。
そこは 連日のように死者が出る過酷な状況でした。
取材に基づき
当時の状況を再現しました。
僅かな
お金しかなかった 金子さん。
買えたのは 一日1本の
サツマイモだけでした。
それを きょうだい3人で
分け合いました。
食べるもののない子どもは
命を落としていきました。
金子さんは 強い罪悪感に
さいなまれたといいます。
上野には 既に闇市が出来→
お金さえあれば 食べ物を手に入れる事ができました。
しかし 地下道で飢えている
子どもたちを→
気にかけてくれる大人は
いなかったといいます。
母親代わりとなって きょうだいを
守ってきた金子さん。
地下道での生活を始めて3か月
持っていたお金が底をつきます。
金子さんは 弟と妹の預け先を
必死で探し回り→
自らは 住み込みで
働く事にしました。
3人は生き別れとなったのです。
戦争の影響で 親を失ったり→
親と離れ離れになったりした
戦争孤児。
その数は 12万人を超えました。
しかし 終戦直後→
子どもたちを保護する
公的な施設は 数が少なく→
環境は劣悪でした。
その一つが 東京・板橋にあった東京都養育院でした。
この施設で 昭和20年11月に
撮影された子どもの写真です。
栄養不足から あばら骨は浮き出て
腹は大きく膨れています。
当時 養育院で
看護師として働いていた…
養育院では 伝染病も流行し→
子どもたちが相次いで亡くなったといいます。
矢嶋さんの証言を裏付ける資料が