2018/08/30(木) 01:00〜01:50 NHKスペシャル「“駅の子”の闘い〜語り始めた戦争孤児〜」[字][再]


残されていました。
東京都養育院 土葬者名簿。

昭和20年3月から昭和21年9月までに亡くなり→
土葬された人 2,700人の
名前と年齢が記録されています。
9歳以下の子どもが 342人。
10代の子どもも86人 亡くなっていました。
子どもの死者数は
昭和21年になっても→
減りませんでした。
施設に入った子どもですら→
死と隣り合わせの
状況だったのです。
国は 終戦直後
孤児の保護方針を示していました。
施設の数が限られる中
第一に掲げたのが→
親戚など
個人の家庭での保護でした。
しかし 予算はつかず→


孤児を預かる家庭にとっては新たな負担となるものでした。
親戚の家に預けられたあと
そこを飛び出し→
駅の子になったという人がいます。
京都市内で暮らす…
駅で暮らしていた時に 病気になり
視力をほとんど失いました。
小倉さんが親を亡くしたのは
昭和20年7月。
13歳の時でした。
当時住んでいた福井県敦賀市で空襲に遭い→
女手一つで育ててくれた母を
亡くしました。
小倉さんは
親しかった親戚の家を頼ります。
しかし 食べていくだけで
精いっぱいだった終戦直後。
親戚の態度は
以前とは変わっていました。
ひどい仕打ちに耐えかねた
小倉さん。
一人やって来たのが
家の近くの この浜でした。
家出を決意した小倉さんは
各地を転々とするようになります。
無賃乗車の末に たどりついたのは
大阪駅でした。
そこには 小倉さんと同じように
路上で暮らす子どもたちが→
多くいました。

お~い 勇!勇 大丈夫か?
大丈夫じゃない…。
小倉さんは 駅で出会った2人カメちゃん 山ちゃんと→
行動を共にするようになりました。
お金も食べるものもなく→
2日間 水しか飲まない日も
ありました。
そして…。
盗みを働くようになりました。
生きるために
一線を越えたのです。
飢えに苦しみながら
路上生活を続けていた小倉さん。
ある日 体に異変が起こります。
深夜強烈な頭痛に襲われたのです。
痛い!
うるせえな!誰だよ!俺じゃねえよ。
痛い!
勘弁してくれよ!
大丈夫かい?
大丈夫かい? 勇。
痛い!
苦しむ小倉さんを介抱してくれたのが→
仲間のカメちゃんでした。
夜通し背中をさすってくれたのです。
病院に行くお金もなかった
小倉さん。
片方の目が
ほとんど見えなくなりました。
駅の子たちは 全国各地で

飢えや病気と闘っていました。
なぜ 国は 有効な対策をとる事が
できなかったのか。
当時の厚生省の幹部は
子どもたちの保護を→
後回しにせざるをえない
状況だったと告白しています。
「もう 殆んど
子供のことなどというものは→
問題にもならなかった」。
国に放置された駅の子たち。
しかし 戦争に敗れるまでは→
親を亡くした子どもへの対応は全く違うものでした。
「私どものお父さんは
戦争に行かれました」。
戦地で親を亡くした子どもたちは
靖国の遺児と呼ばれ→
年に一度 各地の代表が
靖国神社に招待されました。
英霊として祭られた父に再会する