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2020/12/30(水) 08:19〜09:32 ファミリーヒストリー 選「北野武〜父と母の真実 阿波国徳島に何が!〜」[字]


して→
技芸の

巧みなるもの。→
嬢は 本名を
北野うしと言い→
明治6年9月を
もって→
阿波国 徳島
通町2丁目に生まれる」。
すげぇな…。
祖母うしのルーツ 阿波国 徳島。
うしの生まれた通町は
今も使われている町名でした。
徳島城があった場所の
すぐ近くです。
徳島城博物館の根津寿夫さんが
案内してくれました。
かつて通町は 徳島有数の
中心街として栄えました。
明治の頃 うしの実家が


あった 2丁目には→
金物問屋や お茶問屋→
更に 舶来品の時計や自転車を扱う店などが建っていました。
人気娘義太夫として
うしが紹介された雑誌です。
通町で 父親が商売をしていた事も
記されています。
「父を鶴蔵と言い 粉名屋をもって
生業とす」。
北野家は うどん粉を扱う粉問屋を
営んでいました。
店主は うしの父 北野鶴蔵。
武の父方の曽祖父にあたります。
多くの顧客を持ち
鶴蔵の商売は上々でした。
(義太夫節の語り)
鶴蔵には大きな楽しみがありました。
店の奥 自宅の居間から
聞こえてくるのは義太夫節の語り。
8歳になったばかりの次女 うしは
猛烈に のめり込んでいました。
「義太夫節」とは
浄瑠璃の流派の一つ。
太ざおの三味線にのせて
独特の節回しで物語を語ります。
特に徳島は 大阪 淡路と並んで
「人形浄瑠璃」の本場。
江戸時代初期より
民衆の最大の娯楽でした。
徳島に生まれた人々にとって

義太夫節の語り手は 憧れの的。
うしも その一人でした。
うしの非凡さを裏付ける資料が徳島に残されていました。
(取材者)こちらですか?
はい。
明治17年 徳島で開かれた
浄瑠璃の審査会の番付表です。
既に師匠から 竹本八重子という
芸名をもらっていた うし。
当時 徳島には
200人を超す女義太夫がいました。
その中で 八重子の番付は→
僅か11歳ながら上位に位置する 東前頭22枚目。
異例の
スピード出世でした。
順風満帆だった
粉問屋を営む北野家。
ところが 暗雲が立ちこめます。
維新後の資本主義黎明期。
鉄道や紡績など
会社の設立が過熱し→
金融[外:E9221EF98F6EF4667BEC4FF469203DE3]迫が
起きました。
全国的に倒産が相次ぎ 日本経済は
危機的状況に陥ります。
当時 全国第2位の規模だった
民間の銀行→
徳島
久次米銀行。
恐慌から

1年後→
持ちこたえられず→
休業に追い込まれました。
鶴蔵は 一気に資金繰りに
行き詰まったのです。
うしを紹介した
記事によれば→
久次米銀行休業の
翌年→
明治25年に
上京している事が分かります。
実家を助けるため→
東京に チャンスを求めた うし。
その後
日本橋や新宿の寄席に→
積極的に
出演していました。
明治30年に 東京で発表された
番付表です。
並み居る

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