女義太夫を抑え→
うし
竹本八重子は→
東前頭の
6枚目まで上昇。
そして うしは→
徳島の実家へ仕送りを続けました。
現在の通町2丁目です。
北野家や粉問屋の形跡はありません。
その後の鶴蔵の足跡や親戚など→
これ以上 追跡する事はできませんでした。
もう だから…
その中で勉強して みんながエリートになるって すごいですね。
明治37年→
傾いた徳島の実家を救うため東京の寄席で孤軍奮闘する うし。
この年 一人の少女が
千葉の農家に生まれました。
後の武の母 さきです。
「ファミリーヒストリー」 続いてはさきの生い立ちに迫ります。
向かったのは…
さきの母校です。
大正7年の卒業生名簿から→
さきの旧姓と実家の住所が分かりました。
当時の土地台帳と附属の地図を
見ると→
870番地は ほとんどが田畑で
宅地は1軒あるのみ。
しかも 土地の所有者は→
小宮家では ありませんでした。
小宮家は この土地に住み→
米や麦 大豆を作る小作人だったと言われています。
父の名は 寅吉。
武の母方の祖父です。
この家の次女として生まれたのが
後の武の母 さきでした。
さきの戸籍を ひもとくと→
驚くべき事実が分かりました。
両親以外に 3人の姉や兄も→
若くして 全員亡くなっていたのです。
長女 きわは 12歳
長男 常吉は 13歳→
次男 巌は 僅か1歳で
伝染病に倒れていました。
大正7年 跡取りも働き手もいない
小宮家は 農家をやめます。
一人残された さきは 当時14歳。
頼る当てもなく東京へ仕事を求めました。
今回の取材で さきが奉公していた
[外:27F0C69A76BF571D6DC25DB389D20779]山家が明らかになりました。
佐代子さんの祖父 [外:27F0C69A76BF571D6DC25DB389D20779]山市平は→
男爵ではなく 実業家。
陸軍に 衣服や毛布を卸し
ばく大な富を築きました。
東京・本郷区に構えた屋敷は
600坪。
庭に おいなりさんを構えるほどの
大邸宅でした。
佐代子さんは
さきと面識はありませんが→
幼少期に暮らした屋敷の様子は
覚えていました。
そんな事 一番先に言って
バカみたいだけど。 それで…
14歳のさきは
職業あっせん所の紹介で→
[外:27F0C69A76BF571D6DC25DB389D20779]山家の奉公人になったと
いいます。
与えられた仕事は 屋敷中の
便所掃除などの下働きでした。
先輩の奉公人たちは 当たり前の
ように 裁縫や料理ができました。
しかし 母や きょうだいたちと
早くに死別した さきには→
教えてくれる人は
誰もいませんでした。
さきは この状況と
どう立ち向かったのか?
晩年
自分の娘には語っていました。
武の姉 安子さん 80歳。
今回 テレビカメラの前に初登場です。
いきなり話題は→
この取材前日に→
安子さんが行った コンサートの事に→
及びました。
さきにとって唯一の娘 安子さん。
奉公時代の苦労話を最も話せる相手でした。
さきが どうやって裁縫を
身につけたのか 聞いていました。
(取材者)ああ そうなんですか。
意地。意地。
負けず嫌いのさきが
目を付けたのは→
休憩時間に配られる 今川焼。
自分の分は 全て奉公人頭に渡し→
裁縫のいろはを教えてほしいと
懇願したのです。
更に 僅かな睡眠時間を削り→
その日 習った縫い方の復習も欠かしませんでした。
「このままでは終わりたくない」。