2018/08/15(水) 15:50〜17:53 ten.【若一調査隊!京都“五条通”はなぜ道幅が広がった?】[字]
ね。
>>戦後しばらくして道路は整備
され、現在の五条通となりました。
>>大変な聞き取りを調査をして
くれたわけですけども、実際にね、
立ちのかされた側の人とお会いに
なったわけでしょ?
そのときはどういうお話なさいま
したでしょうか?
>>いや、あのときの気持ちはあ
んたらに、今に話をするけれども、
そんなどころの騒ぎやなかったん
やで。
荷車に荷物を積んで出ないかん、
出る先はまだわかっとらへんのに、出ていかなあかん、まあ、あんな
悔しい、情けない、
そういう思いで引っ越ししたという話は、
涙ながらにしはったいう人が。
ここの人は全部ですわ。
>>突然、一方的に言い渡された
建物疎開。
立ちのきまでに当時の住民たちに
与えられた日数は、たったの3日
間でした。
男性の多くは戦地に召集されていたため、影響を受けた多くは、老
人や女性、そして子どもでした。
>>京都って、
戦争の爪痕っていうのはないって、
ほとんど言われてた。でも、
これはもう、
まさに被害。
確かに、戦後の都市政策の中で、
あんだけ五条通がひろうなったさかいに発展したというお声を聞い
たこともあるんですけど。
その裏にはね、やっぱりそういう、
悲しい思いを、ましてや、その3
日で、
まだ赤ちゃんの子どもさん抱えて
の方やらもありますから、
どうするんですか。
ほんで探せって言われたって、できないし。
>>住民の生活の場を一瞬で奪い
去った建物疎開。
では、実際の現場で建物はどのよ
うに破壊されたのでしょうか。
戦時中、
学徒動員によって家の取り壊しに参加させられた西山さん。
当時、中学2年生でした。
>>戦争っていうのは、
計画性なしに、
とにかくあっち行け、
こっち行けということでね、われ
われ動員されて、
私ら行ったら、まだ家がまだ少し
残っておったんですよね。
>>まだ壊しきっていない状態?
>>壊しきってない。
それを綱で引き倒した。
>>綱でですか?
>>建物の例えば大黒柱なんかに
綱かけて。それを引っ張るわけで
すか。
>>引っ張った。
今でも、しっかりと覚えてるんで
すけども、朝、そこに住んでおら
れて、その方が、朝、食事されて、
まだこの鍋に、
雑炊が残っているんですよね。
それをわれわれがその鍋も釜も、
全部また金属回収ということで、
われわれがそれ。
>>中学生の身でそれを…。
>>それをまた、
なんとも、
今でこそ大変なことをしたと思うんですけどね、もうとにかくもう、
頭の中空っぽ、とにかく言われる
ままに、
言われることをやってたというこ
とやね。
もう戦争には、
そんな理性なんかないですよ。
>>西山さんは、
今でも五条通を通ると、
当時のことを鮮明に思い出すとい
います。
一方、
家を取り壊された人たちは、どんな思いでいたのでしょうか。
古澤さんの案内で、
地図を復元するために、
最初に聞き取り調査を行ったとい
う場所へ向かいます。
その途中。
>>小さなおうちですけど、
青木玉初堂さんって。
ビルとビルの間に、小さくあるで
しょ。
あそこがね、もともとからあって、
今もまだ、続いているんですよ。
>>じゃ、北側のほうはまだ名残
はあるという。